110206 カフェ研レポート

レポート「第8回てつがくカフェ@せんだい~大人になるってどういうこと?~」

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   近田真美子(てつがくカフェ@せんだい 東北福祉大学教員)
report     大人になるってどういうことなのでしょう。それは、年齢を重ねることでなるものなのでしょうか。また、そもそもここでいう「大人」とは一体何を指しているのでしょうか。こうした議論を始める前に、まずは参加者1人ひとりに対し、自分は「大人」であるのかそれとも「子ども」であるのかという問いを投げかけ、各々それについて答えてもらいました。フロアからは、すでに子を持つ親であり、経済的にも自立しているから「大人」であるといった意見や、感情的になってしまったり、場にそぐわない言動をしてしまうため「子ども」であるといった意見が出されました。一方、大人/子どもとはっきり区別することができないという意見もあり、その多くは、〈なりたい大人像〉に到達していないため「大人」であるとは言い難いという理由によるものでした。こうした対話を通じて浮かび上がってきたのは、「大人」という言葉そのものの多義性と、大人/子どもの境界を明確にすることがいかに困難かということでした。しかしながらその一方で、〈社会〉という場では「大人」にならざるを得ないのではないか、参加者からこのような意見が出されました。他にも、自分がいくら大人/子どもであると主張しても、〈社会〉がそれを認めない場合はどうするのか、という問いも投げ込まれました。確かに――そもそも「大人」とは誰が規定するものなのでしょうか。〈自己〉でしょうか、それとも〈社会〉でしょうか。そして、もし〈社会〉が認めないとしたら、私たちは「大人」にならざるを得ないのでしょうか。この問いに対する議論を深めることは出来ませんでしたが、〈社会〉という場に関与するのが「大人」であるという前提のもとでは、人は誰しも「大人」になることから逃れられないのかもしれません。おそらく、子育てにおける親から子への眼差しもこうした意図を少なからず含んでいるはずです。        では、どうしたら大人になれるのでしょうか。人は誰しも成長する存在であるという価値観のもとでは、大人になるということは何かを〈獲得〉していくプロセスであると捉えられがちです。しかし、参加者からは、様々な可能性を〈喪失〉していく体験ではないかという意見が出されました。大人になるプロセスを〈獲得〉と捉えるのか〈喪失〉と捉えるのかでは、大人になるというイメージそのものが大きく異なってくるように思います。私たちが今生きている〈社会〉は、大人の〈眼差し〉から子どもを逆規定し、大人にとって都合の良い〈社会〉を構築しようとする傾向が強まっているように感じます。大人/子どもの境界線というのは、年齢や法律によって区切られるのではなく、お互いの〈眼差し〉によって規定されるものではないでしょうか。様々な疑問を残しつつ対話の場を閉じてしまいましたが、今回のように、大人/こどもへの〈眼差し〉を再構築する営みこそ重要なのではないか、そんな思いが胸をよぎった今回のてつがくカフェでした。
    文責:近田真美子(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2011年2月6日(日)15時から17時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい

goban tube cafe イベント実施者募集中!

活動の情報交換を目的としたカフェを開催してみませんか? 

メディアテーク7階にあるgoban tube cafe(ごばんちゅーぶかふぇ)では、活動の輪を広げたい、自分と似たような活動をしている人に話をきいてみたいかたなどが集まって、カフェイベントを開催しています。来年度前期のカフェイベント実施者を公募します。

受付期間:2011年2月1(火)~2月28日(月) 実施期間:2011年5月1日(日)~9月30日(金)

arrright goban tube cafe 使用条件・募集要項は
  こちらから

110115 カフェ研レポート

レポート「第6回映像カフェせんだい~映像で環境も考えるって?~」

ホスト spacer メディアリテラシープロジェクト
マスター   久保田順子(仙台市民メディアネット)
report   6回目となる今回は、FEEL Sendai主催の「FEEL賞:環境ショート映像3min.コンテスト」受賞作品を上映。これは環境をテーマにした映像作品を通して、市民が環境につい て考える機会を提供することを目的に始まったコンテスト。大賞を受賞した、交通を考える研究会の「かしこい公共交通の利用者になろうよ」は独自の 視点でバス利用の推進をうまく表現されていました。また、準大賞の作品も力作で、とくに宮城教育大学の学生グループが制作した「地球温暖化の真実」はユーモラスで傑作だった。後半は参加者の作品を上映、モーターパラグライダーでの空撮はとてもかっこよく圧巻でした。全部で8作品を上映。はじめて参加された方が多く、 新鮮で活発な意見交換ができたのがよかった。今後も映像を楽しむ市民の交流広場として、映像カフェを啓蒙推進していきたい。 
    文責:米本正広(映像カフェせんだい事務局)
開催日時   2011年1月15日15時から17時
開催告知web   映像カフェせんだい

101226 カフェ研レポート

レポート「第7回てつがくカフェ@せんだい~バリアとはなにか?~」

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report    「『これが手だ』という、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」これは、夭折の詩人である中原中也が「芸術論覚え書」という小品のなかで書き記した、芸術に関する彼自身の決意表明ともとれることばです。今回のてつがくカフェのテーマである「バリアとはなにか?」の下地を拵えてくれた小山田徹さんと藤井光さんの展覧会(「消費社会と均質化を乗り越える「アートの夢」)を鑑賞しているあいだ中、私はなぜかずっとこのことばの真意を問い質していました。今回の小山田徹さんの作品は、われわれに馴染みのある、あるいは馴染みすぎてそれ以外の何者にも見えなくなってしまった日常の生活用品を敢えて宙刷りにしてフロアいっぱいに展示することで、それらのものに対していつもとは違った見方や解釈の隙間を穿とうとする試みの集合と言えます。裏を返して言えば、それらの作品はわれわれがそれらのものに対して抱き、いつのまにか凝り固まってしまった固定観念がそれらの対象とのかかわりを窮屈なものへと貶めてしまう「バリア」として機能することに対する徹底した〈忌避感の表明〉もしくは〈抵抗の試み〉とも捉えることができるのではないでしょうか。                                        今回のてつがくカフェ(「バリアとはなにか?」)では、まず参加者がこの小山田徹さんと藤井光さんの展覧会を鑑賞したあとで、「自分が考えるバリアとはなにか?」という問いを切り口に、対話を進めていきました。第一に、「バリア」とは他者へのレッテルであり偏見、烙印(ラベリング)、個人的な価値観、先入観のことだと考える。なぜなら、このようなバイアスは他者や対象理解への柔軟なアクセスを阻害するからである。第二に、「バリア」はあらゆる対象をわれわれの理解しやすいようにカテゴライズする「分類」という発想にも潜んでいるように思われる。それらの「分類」という発想は、正常/異常、善い/悪いといった境界を〈一律的な基準〉へと仕立て上げてしまう社会的な規範や制度、さらには権力として一層強固な「バリア」的側面を顕にさせ、その境界があたかも乗り越えがたい修正不可能なものであるかのような幻想をわたしたちに抱かせもする。  このように、さしあたり「バリア」は「障碍」といった否定的なニュアンスで語られました。しかしながらその一方で、むしろ「バリア」を肯定的な意味合いで語ることも可能なのではないか、参加者からこのような視点が投げかけられました。国家レベルにしろ個人レベルにしろ、すべての境界が解かれ、均されるのであれば個々の文化や個性といったものも同時に消滅してしまうのではないか。「バリア」はわれわれに個性や際(きわ)をあたえてくれるものとしてむしろ肯定的に捉えるべきではないのか。このような文脈で言われるときの「バリア」には「障碍」というよりも、むしろ自分を護り、かたちづくってくれる「防壁」という意味が込められているのだと思います。  とはいえ、いずれにしても社会規範や制度がまさに「バリア」のように硬直化してしまい、凝り固まった厄 介なものにならないようにそれらの「恣意性」を常に注視し、解体し、さらには更新させていくような柔軟な構えが私たちに求められているのではないか、と一緒に参加してくださった小山田さんご本人からの発言もあり、そういった〈制度の「恣意性」に対する感受性〉を遠慮がちに育み、拓いていくのがアートの役目もしくは機能なのではないかといった考えが参加者間で最後に共有されました。

  「芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である」。「芸術を衰褪させるものは固定観念である」。

  冒頭で触れた中原中也は「名辞以前の世界」を求めるために徹底して「固定観念」や「認識」のもつ負の機能の弊害を説きます。「芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更ない」。このことばは単なる「芸術に対する覚え書」程度のものとして理解すべきではなく、わたしたちの前に「バリア」として立ちはだかる社会の規範に臨む際にわたしたちが常に携えておくべき〈態度〉を教え諭しているような気がしてなりません。

    文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年12月26日(日) 15時から17時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい