レポート「第4回 てつがくカフェ~他人のこころの痛みって理解できる?~」
ホスト | てつがくカフェ@せんだい | |
マスター | 西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員) | |
report | わたしたちには、どれだけ親密な時間をともに過ごしても(あるいは過ごしたからこそ)他人のこころの内奥で疼く〈痛み〉に近づけない無力感を感じることが多々あります。またその逆に、稀にですが、自分ではなにもしていなくても相手に「自分の〈こころの痛み〉が分かってもらえた」などと言われ、感謝されるという場面に出くわすこともあります。とはいえ、そのときわたしたちは本当に「他人の〈こころの痛み〉を理解した」と言えるでしょうか。あるいはそれ以前に、そもそも私たちには、他人の〈こころの痛み〉を理解し、またそれを分かち合うことなどできるのでしょうか。第4回目の哲学カフェはこのような問題意識を事前に共有しながら議論を開始しました。 参加者のあいだで一番議論になったのは、他人の〈こころの痛み〉が分かるという際のこの「分かる」は、「答えが分かる」や「知識や技術を了解した」といったような意味合いと同じ「分かる」と考えてよいのか(そうではない)、という点でした。ここで言われている「分かる」や「理解」とは「感情の一致」もしくは「意見の一致をみると」いうことなのか、それは「同情」や「あわれみ」のことではないのか、つまり、そのような「感情の一致」は起こりえず、それはこちらからの一方的な感情移入なのではないのかなどといった様々な問いが投げかけられました。ただ、今回も議論の途中で時間がきたことで、これらのすべての問いかけについて議論をさらに進めていくことができなかったことがとても残念でした。また、今回の哲学カフェでは議論の流れが少しばかり散らかってしまったような気がします。 その背景には、テーマ設定が広すぎてうまく議論が展開できなかったたという問題があったように思います。「他人のこころの痛みって理解できる?」を考えるためには、「他人」「こころ」「痛み」の定義などについてあらかじめ綿密に整理しておく必要があります。それにもかかわらず、時間の都合で事前にその手間を省いてしまったことが議論の散らかりに繋がったのかもしれません。ファシリテートの難しさにあらためて気づかされました。参加者のみなさんには粘り強い議論を展開していただき、本当に感謝しています。これに懲りずに次回もよろしくお願いいたします。 |
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文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい) | ||
開催日時 | 2010年9月12日(日) 15時から17時 | |
開催告知web | てつがくカフェ@せんだい |