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私たちは「空気を読め!」という言葉をしばしば耳にします。しかし、そこでいう「空気」とは何でしょうか?このような問いに対し、まず参加者からは日本文化を背景としたオーラや気、心といったものの集合体という意見が出される一方、そもそも「空気」なる実体などはなく、各人の錯覚がつくり上げたものではないかとの意見も出されました。しかし、そこでも集団幻想のような存在は想定されているようですし、その意味で「空気」とは、言語を介さずに了解されたと思い込まれている暗黙知ではないかと確認されます。中には、モラルや作法、法といった規範や手続きからはみ出す何ものかではないかとの意見も出されました。モラルや法は秩序維持に欠かせないものですが、「空気」とはそれだけでは補い切れない何かなのかもしれません。そして、そこへ「思いやり」や「善意」といった主観性が暗黙で要請されるとき、集団的な錯覚に基づく判断が形成されることになるのでしょう。一方、「空気」を読むことは有限な時間を過ごす人間にとって、社会的に生きる上で重要なリテラシーであるとの意見も出されました。ここには「空気」を読むことがコミュニケーションの阻害であるというよりも、むしろ高度な技法であるという認識があったように思われます。しかしながら、空気が読めるからといって、それに同調しなければならないというわけではありません。むしろ、その同調圧力に抗しうる個人の多様性がいかに保障されるかという前提こそ、日本文化に問われる課題なのではないでしょうか。参加者からは、「空気を読むことの是非」をめぐっての議論が求められましたが、「空気」の定義をめぐって時間を費やしたため、残念ながらその論点に深めるまでには至りませんでした。今までで最多の40名参加という中、論点整理などファシリテータの不手際でなかなか議論がまとまりませんでしたが、参加者の皆様の活発な発言や問題提起に助けられながら無事終了することができました。 |