101106 カフェ研レポート

レポート「「第4回映像カフェせんだい~バリアの克服体験・記録【視覚をなぞる】~」 

ホスト spacer メディアリテラシープロジェクト
マスター   久保田順子(仙台市民メディアネット)
report    10周年を迎えたメディアテークでは、光島貴之氏の「音と触覚で生活世界をなぞる」をおこなっている。映像カフェでも「視覚をなぞる」として光島さんの生活の一端を体験してみようと特集をくんだ。情報化とグローバルの中における様々なバリアを切り開くため目の見えない方がどのように生活を送っているのか、視覚以外の感覚をどのようにつかって生活しているのかを映像体験し記録を上映した。目隠しをして視界のない中の映像はどこを映し出しているのか興味があった。2名の方が目隠しをしてカメラで撮った映像は思いの外しっかりと写っていた。体験の中の感想で「自分の歩いているほうにカメラがちゃんと向いているかどうかが気になった」というのがあり、これは普段見えている人が目隠しをした途端に気になることなのかも知れないと思う。光島さんの世界を回っていると、今まで使っていなかった感覚が一斉に生き生きと動き出して来るような気がして体験した後は満足感と心地よさで興奮した。目の見えることを当たり前のように生活している私たちの方に気づかされることが多い滅多にない体験をした。後半は持ち込み作品を上映し今回も知らなかった所や初めて見た行事の作品を楽しんだ。 
    久保田順子(仙台市民メディアネット)
開催日時   2010年11月6日15時から17時
開催告知web   映像カフェせんだい

101024 カフェ研レポート

レポート「第5回 てつがくカフェ~幸福ってなに?~」

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report   「あなたにとって幸福とはどのようなもの(状態)ですか?」。今回の哲学カフェでは、まずは参加者の方々にそのような問いを投げかけ、各々それについてこたえてもらうところから議論を始めました。参加者の方々のこたえを聞いていてファシリテータとしてとても興味深かったのは、こちらが「あなたにとっての幸福の状態」を聞いているにもかかわらず、そのこたえの多くが「幸福一般」について語られていたという点です。おそらく、参加者の方々は、どこかしら幸福というものが「自分さえよければそれでよい」といった〈自己充足的な側面〉からだけでは語り尽くせないものであることを直感的に感じ取っておられたのかもしれません。今回の議論も、まさにそのような直感に後押しされるようなかたちで進んでいきました。

確かに、〈幸福の条件〉として第一に考えなければならないのは「自分の特定の欲求が満たされているかどうか」であることは疑い得ない。しかしながら、それが自分の目指す行き方や信条から著しく懸け離れた、いわゆる目先の欲求の充足であるならば、そしてさらには〈社会的な承認〉が一切得られないような状態のものであるならば、どれだけそれが心地のよい状態であったとしてもそれは一時的なものに過ぎず、わたしたちはそれを「幸福」とは呼び得ないのではないか。すなわち、〈幸福の条件〉にはどうも〈他者や社会からの承認〉といった要素が欠かせないのではないか。

今回の議論はこのようなかたちで進んでいきましたが、もうひとつの議論のスジとして「幸福観」ということばに焦点を絞ったものがありました。幸福をどのようなもの(状態)として考えるかは個々の文化や時代(世代)の違いによって異なってくるものであって、すべての地域や文化、さらには時代(世代)を越えて妥当する〈普遍的な幸福観〉などといったものは存在しないと考えるべきではないか、といった議論です。もちろん、〈幸福の条件〉を考えていくうえで、このような〈幸福観〉の普遍性に関する吟味も必要でしょう。

今回もとても刺激的な対話がさまざまなかたちで展開されました。参加者のみなさん、また次回もよろしくお願いいたします。

    文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年10月24日(日) 11時から13時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい

101029 カフェ研レポート

レポート「第3回micafe~手応えのある環境、他者の居る都市~」 

ホスト   身体メディア研究会
マスター   堀江政広氏(東北工業大学クリエイティブデザイン学科)
ゲスト spacer 鈴木毅氏(環境行動デザイン研究)
report   micafe第3回は、大阪大学大学院工学研究科の鈴木毅さんをお招きして、都市空間における人の「居方(いかた)」についてお話頂きました。最初に見せて下さったのは、ご自身で撮影されたたくさんの写真やビデオでした。世界中の公園や都市空間、建築物のなかに様々に「居る」人々。その居方は、国により、文化により、そして空間により、それぞれに異なります。また、環境にぴったりと寄り添うように居る人々は、それ自体が環境の一部として認識され、見せて頂いた写真はどれもそれ自体が一つの絵のような完成した空間として映し出されていました。次に、鈴木さんは知覚心理学者ギブゾンのアフォーダンス理論から、行動や視覚の変化による自己と建築物の関係性の変化について、「手応え」という言葉を用いてわかりやすくご説明下さいました。そして、それと同様、ある空間における自己と他者との関係についても、他者の「居方」、またそれを認知することが、自己の「居方」や環境そのものに対する認知に関わってくるのだとお話下さいました。その後、参加者は、鈴木さんのお話をもとに、各テーブルごとに熱い議論を交わしました。普段何気なくとっている行動やふるまいは、実はその空間や環境と切り離して考えることができないこと、都市や建築はそこに居る人々との相互作用により認識されること、多くの気づきと学びを頂いた数時間でした。
  坂田邦子(東北大学大学院情報科学研究科)
開催日時   2010年10月29日(金)18時から20時
開催告知web   micafe

100912 カフェ研レポート

レポート「第4回 てつがくカフェ~他人のこころの痛みって理解できる?~」

 

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report   わたしたちには、どれだけ親密な時間をともに過ごしても(あるいは過ごしたからこそ)他人のこころの内奥で疼く〈痛み〉に近づけない無力感を感じることが多々あります。またその逆に、稀にですが、自分ではなにもしていなくても相手に「自分の〈こころの痛み〉が分かってもらえた」などと言われ、感謝されるという場面に出くわすこともあります。とはいえ、そのときわたしたちは本当に「他人の〈こころの痛み〉を理解した」と言えるでしょうか。あるいはそれ以前に、そもそも私たちには、他人の〈こころの痛み〉を理解し、またそれを分かち合うことなどできるのでしょうか。第4回目の哲学カフェはこのような問題意識を事前に共有しながら議論を開始しました。
参加者のあいだで一番議論になったのは、他人の〈こころの痛み〉が分かるという際のこの「分かる」は、「答えが分かる」や「知識や技術を了解した」といったような意味合いと同じ「分かる」と考えてよいのか(そうではない)、という点でした。ここで言われている「分かる」や「理解」とは「感情の一致」もしくは「意見の一致をみると」いうことなのか、それは「同情」や「あわれみ」のことではないのか、つまり、そのような「感情の一致」は起こりえず、それはこちらからの一方的な感情移入なのではないのかなどといった様々な問いが投げかけられました。ただ、今回も議論の途中で時間がきたことで、これらのすべての問いかけについて議論をさらに進めていくことができなかったことがとても残念でした。また、今回の哲学カフェでは議論の流れが少しばかり散らかってしまったような気がします。 
その背景には、テーマ設定が広すぎてうまく議論が展開できなかったたという問題があったように思います。「他人のこころの痛みって理解できる?」を考えるためには、「他人」「こころ」「痛み」の定義などについてあらかじめ綿密に整理しておく必要があります。それにもかかわらず、時間の都合で事前にその手間を省いてしまったことが議論の散らかりに繋がったのかもしれません。ファシリテートの難しさにあらためて気づかされました。参加者のみなさんには粘り強い議論を展開していただき、本当に感謝しています。これに懲りずに次回もよろしくお願いいたします。
    文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年9月12日(日) 15時から17時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい