101121 カフェ研レポート

レポート「第6回てつがくカフェ@せんだい~場の空気ってなに?~」

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report   私たちは「空気を読め!」という言葉をしばしば耳にします。しかし、そこでいう「空気」とは何でしょうか?このような問いに対し、まず参加者からは日本文化を背景としたオーラや気、心といったものの集合体という意見が出される一方、そもそも「空気」なる実体などはなく、各人の錯覚がつくり上げたものではないかとの意見も出されました。しかし、そこでも集団幻想のような存在は想定されているようですし、その意味で「空気」とは、言語を介さずに了解されたと思い込まれている暗黙知ではないかと確認されます。中には、モラルや作法、法といった規範や手続きからはみ出す何ものかではないかとの意見も出されました。モラルや法は秩序維持に欠かせないものですが、「空気」とはそれだけでは補い切れない何かなのかもしれません。そして、そこへ「思いやり」や「善意」といった主観性が暗黙で要請されるとき、集団的な錯覚に基づく判断が形成されることになるのでしょう。一方、「空気」を読むことは有限な時間を過ごす人間にとって、社会的に生きる上で重要なリテラシーであるとの意見も出されました。ここには「空気」を読むことがコミュニケーションの阻害であるというよりも、むしろ高度な技法であるという認識があったように思われます。しかしながら、空気が読めるからといって、それに同調しなければならないというわけではありません。むしろ、その同調圧力に抗しうる個人の多様性がいかに保障されるかという前提こそ、日本文化に問われる課題なのではないでしょうか。参加者からは、「空気を読むことの是非」をめぐっての議論が求められましたが、「空気」の定義をめぐって時間を費やしたため、残念ながらその論点に深めるまでには至りませんでした。今までで最多の40名参加という中、論点整理などファシリテータの不手際でなかなか議論がまとまりませんでしたが、参加者の皆様の活発な発言や問題提起に助けられながら無事終了することができました。
    文責:渡部 純(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年11月21日(日) 11時から13時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい

101226 てつがくカフェ@せんだい

告知「第7回てつがくカフェ@せんだい~バリアとはなにか?~」

ホスト てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい、東北文化学園大学教員)
カフェの内容   てつがくカフェは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」をとおして自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験していただこうとするものです。今回は、せんだいメディアテーク6fにて開催中の「いま、バリアとはなにか―消費社会と均質化を乗り越えるアートの夢」展を鑑賞後、私たちを取りまくさまざまな「バリア」について、ゆっくりお茶を飲みながら考えます。どなたも気軽にご参加くだい。
開催日時   2010年12月26日(日)15:00-17:00
会場   せんだいメディアテーク7階 goban tube cafe
参加申込方法   事前申込不要・100円(ギャラリー鑑賞料)お問合わせ tanishi@hss.tbgu.ac.jp(西村) 
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい

101024 カフェ研レポート

レポート「第5回 てつがくカフェ~幸福ってなに?~」

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report   「あなたにとって幸福とはどのようなもの(状態)ですか?」。今回の哲学カフェでは、まずは参加者の方々にそのような問いを投げかけ、各々それについてこたえてもらうところから議論を始めました。参加者の方々のこたえを聞いていてファシリテータとしてとても興味深かったのは、こちらが「あなたにとっての幸福の状態」を聞いているにもかかわらず、そのこたえの多くが「幸福一般」について語られていたという点です。おそらく、参加者の方々は、どこかしら幸福というものが「自分さえよければそれでよい」といった〈自己充足的な側面〉からだけでは語り尽くせないものであることを直感的に感じ取っておられたのかもしれません。今回の議論も、まさにそのような直感に後押しされるようなかたちで進んでいきました。

確かに、〈幸福の条件〉として第一に考えなければならないのは「自分の特定の欲求が満たされているかどうか」であることは疑い得ない。しかしながら、それが自分の目指す行き方や信条から著しく懸け離れた、いわゆる目先の欲求の充足であるならば、そしてさらには〈社会的な承認〉が一切得られないような状態のものであるならば、どれだけそれが心地のよい状態であったとしてもそれは一時的なものに過ぎず、わたしたちはそれを「幸福」とは呼び得ないのではないか。すなわち、〈幸福の条件〉にはどうも〈他者や社会からの承認〉といった要素が欠かせないのではないか。

今回の議論はこのようなかたちで進んでいきましたが、もうひとつの議論のスジとして「幸福観」ということばに焦点を絞ったものがありました。幸福をどのようなもの(状態)として考えるかは個々の文化や時代(世代)の違いによって異なってくるものであって、すべての地域や文化、さらには時代(世代)を越えて妥当する〈普遍的な幸福観〉などといったものは存在しないと考えるべきではないか、といった議論です。もちろん、〈幸福の条件〉を考えていくうえで、このような〈幸福観〉の普遍性に関する吟味も必要でしょう。

今回もとても刺激的な対話がさまざまなかたちで展開されました。参加者のみなさん、また次回もよろしくお願いいたします。

    文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年10月24日(日) 11時から13時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい

100912 カフェ研レポート

レポート「第4回 てつがくカフェ~他人のこころの痛みって理解できる?~」

 

ホスト spacer てつがくカフェ@せんだい
マスター   西村高宏(てつがくカフェ@せんだい 東北文化学園大学教員)
report   わたしたちには、どれだけ親密な時間をともに過ごしても(あるいは過ごしたからこそ)他人のこころの内奥で疼く〈痛み〉に近づけない無力感を感じることが多々あります。またその逆に、稀にですが、自分ではなにもしていなくても相手に「自分の〈こころの痛み〉が分かってもらえた」などと言われ、感謝されるという場面に出くわすこともあります。とはいえ、そのときわたしたちは本当に「他人の〈こころの痛み〉を理解した」と言えるでしょうか。あるいはそれ以前に、そもそも私たちには、他人の〈こころの痛み〉を理解し、またそれを分かち合うことなどできるのでしょうか。第4回目の哲学カフェはこのような問題意識を事前に共有しながら議論を開始しました。
参加者のあいだで一番議論になったのは、他人の〈こころの痛み〉が分かるという際のこの「分かる」は、「答えが分かる」や「知識や技術を了解した」といったような意味合いと同じ「分かる」と考えてよいのか(そうではない)、という点でした。ここで言われている「分かる」や「理解」とは「感情の一致」もしくは「意見の一致をみると」いうことなのか、それは「同情」や「あわれみ」のことではないのか、つまり、そのような「感情の一致」は起こりえず、それはこちらからの一方的な感情移入なのではないのかなどといった様々な問いが投げかけられました。ただ、今回も議論の途中で時間がきたことで、これらのすべての問いかけについて議論をさらに進めていくことができなかったことがとても残念でした。また、今回の哲学カフェでは議論の流れが少しばかり散らかってしまったような気がします。 
その背景には、テーマ設定が広すぎてうまく議論が展開できなかったたという問題があったように思います。「他人のこころの痛みって理解できる?」を考えるためには、「他人」「こころ」「痛み」の定義などについてあらかじめ綿密に整理しておく必要があります。それにもかかわらず、時間の都合で事前にその手間を省いてしまったことが議論の散らかりに繋がったのかもしれません。ファシリテートの難しさにあらためて気づかされました。参加者のみなさんには粘り強い議論を展開していただき、本当に感謝しています。これに懲りずに次回もよろしくお願いいたします。
    文責:西村高宏(てつがくカフェ@せんだい)
開催日時   2010年9月12日(日) 15時から17時
開催告知web   てつがくカフェ@せんだい