「『これが手だ』という、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」これは、夭折の詩人である中原中也が「芸術論覚え書」という小品のなかで書き記した、芸術に関する彼自身の決意表明ともとれることばです。今回のてつがくカフェのテーマである「バリアとはなにか?」の下地を拵えてくれた小山田徹さんと藤井光さんの展覧会(「消費社会と均質化を乗り越える「アートの夢」)を鑑賞しているあいだ中、私はなぜかずっとこのことばの真意を問い質していました。今回の小山田徹さんの作品は、われわれに馴染みのある、あるいは馴染みすぎてそれ以外の何者にも見えなくなってしまった日常の生活用品を敢えて宙刷りにしてフロアいっぱいに展示することで、それらのものに対していつもとは違った見方や解釈の隙間を穿とうとする試みの集合と言えます。裏を返して言えば、それらの作品はわれわれがそれらのものに対して抱き、いつのまにか凝り固まってしまった固定観念がそれらの対象とのかかわりを窮屈なものへと貶めてしまう「バリア」として機能することに対する徹底した〈忌避感の表明〉もしくは〈抵抗の試み〉とも捉えることができるのではないでしょうか。 今回のてつがくカフェ(「バリアとはなにか?」)では、まず参加者がこの小山田徹さんと藤井光さんの展覧会を鑑賞したあとで、「自分が考えるバリアとはなにか?」という問いを切り口に、対話を進めていきました。第一に、「バリア」とは他者へのレッテルであり偏見、烙印(ラベリング)、個人的な価値観、先入観のことだと考える。なぜなら、このようなバイアスは他者や対象理解への柔軟なアクセスを阻害するからである。第二に、「バリア」はあらゆる対象をわれわれの理解しやすいようにカテゴライズする「分類」という発想にも潜んでいるように思われる。それらの「分類」という発想は、正常/異常、善い/悪いといった境界を〈一律的な基準〉へと仕立て上げてしまう社会的な規範や制度、さらには権力として一層強固な「バリア」的側面を顕にさせ、その境界があたかも乗り越えがたい修正不可能なものであるかのような幻想をわたしたちに抱かせもする。 このように、さしあたり「バリア」は「障碍」といった否定的なニュアンスで語られました。しかしながらその一方で、むしろ「バリア」を肯定的な意味合いで語ることも可能なのではないか、参加者からこのような視点が投げかけられました。国家レベルにしろ個人レベルにしろ、すべての境界が解かれ、均されるのであれば個々の文化や個性といったものも同時に消滅してしまうのではないか。「バリア」はわれわれに個性や際(きわ)をあたえてくれるものとしてむしろ肯定的に捉えるべきではないのか。このような文脈で言われるときの「バリア」には「障碍」というよりも、むしろ自分を護り、かたちづくってくれる「防壁」という意味が込められているのだと思います。 とはいえ、いずれにしても社会規範や制度がまさに「バリア」のように硬直化してしまい、凝り固まった厄 介なものにならないようにそれらの「恣意性」を常に注視し、解体し、さらには更新させていくような柔軟な構えが私たちに求められているのではないか、と一緒に参加してくださった小山田さんご本人からの発言もあり、そういった〈制度の「恣意性」に対する感受性〉を遠慮がちに育み、拓いていくのがアートの役目もしくは機能なのではないかといった考えが参加者間で最後に共有されました。
「芸術といふのは名辞以前の世界の作業で、生活とは諸名辞間の交渉である」。「芸術を衰褪させるものは固定観念である」。
冒頭で触れた中原中也は「名辞以前の世界」を求めるために徹底して「固定観念」や「認識」のもつ負の機能の弊害を説きます。「芸術は、認識ではない。認識とは、元来、現識過剰に堪られなくなつて発生したとも考へられるもので、その認識を整理するのが、学問である。故に、芸術は、学問では猶更ない」。このことばは単なる「芸術に対する覚え書」程度のものとして理解すべきではなく、わたしたちの前に「バリア」として立ちはだかる社会の規範に臨む際にわたしたちが常に携えておくべき〈態度〉を教え諭しているような気がしてなりません。 |