2011年度 企画案B「叫びのつぶやき展」

もう一度考えるグループ(Bチーム)

Ⅰ.企画の経緯

 一般市民の目線で考えたい

 Bチームは、メディアテークという公的な場で行う展覧会企画という意味を考え、個々人の内面から湧き出る思想や価値観からテーマを設定するのではなく、まず一般市民として公的・客観的な視点で何を考えるかという切り口から議論を進めました。

 市民としての関心ごとや諦めていること、夢や未来のことなど考察するにつれて、他者との関係性や社会との属性が問いとなって重くのしかかってくる様になりました。その問いはネガティブにもポジティブにも捉えられるものでしたが、私たちBチームはポジティブな問いかけを求めたいと考えました。

 一般市民の目線は個々人の視点から

私たちは、日常の社会を見渡すと多岐にわたる事象が複雑に絡まって存在しているために一般市民の目線から現状を把握することには困難がある事を実感し、また、「この先」を考えようとすればますます不明瞭となり、考えようとするスタンスの根底には自分自身が属する環境・価値観・志向が背景として現れることに気づかざるを得ませんでした。

一般市民としての思考としても結局は個々人の素因と個々を取り巻く環境因が強く作用していることを実感する結果となりました。

 この先について考えてみる

私たちはこの考察の過程を経て、市民の目線という切り口には、「市民の一人としての目線」という視座が含まれていることから以下の結論を導きました。

 公的な世界と私的な世界は、分断されることなく存在し

「この先」を想像することで、すべては「個人」と「社会」の間を循環し続ける

 

降臨するテーマ

この結論を受けて、個と社会との関係性を考えるためにふさわしいテーマを議論しましたが、全員が納得するようなものがなかなか現れません。議論三日目にして、メンバーの一人がふと口にする感じで『叫びのつぶやき』と出たとき、霧が晴れたかのように全員が共感し私たちの思いが伝わるのではと納得したのでした。

Ⅱ.企画案

 『叫びのつぶやき展』企画書

          泉田文陽 岩瀬張友花 奥山心一郎 北村由里 小林えり 佐藤厚 長崎由幹

 

 本展覧会では、来客者に、無意識のうちに一人ひとりの本性を変化させる社会の特質と、本来人が持っていた本性(叫び)を提示します。来客者に、社会に抑圧されている本性のつぶやきに耳を傾けていただき、いかに社会で生きていくかを問いかける展覧会としたいと思います。

■展覧会について

【誰もが異なる本性を抱いている】

私たちは恐怖、好奇心、競争、不信、復讐、自尊心、欲望などといったあらゆる情念を抱きながら暮らしています。湧き出てくるさまざまな情念を素直に感じる心を本性と呼ぶとすると、私たちは一人ひとり異なる本性を抱いているといえます。ひとつの物事に対してもそれぞれが異なる感情を抱いたり、また違う行動をとったりすると考えられます。

 

【社会とは個人の集団である】

 私たちは一言に社会と聞くと、物凄く大きくてぼんやりとしたものを想像するかも知れません。しかし、それぞれ異なった本性を持つ人間たちが集まることで成り立っているものだと考えると、社会は身近なものとして捉えることができます。

 

【抑圧される本性】

しかし、私たちは誰かと関わるとき、持っている本性を全てさらけ出して付き合うことはあるでしょうか。例えば、上司と話し合いをするときは、自分の考えと異なっていたとしても上司の言い分に従うということがあるでしょう。また、人前でスピーチをするときは、緊張して言いたいことをうまく伝えられなかったということもあるでしょう。

このように私たちが誰かと関わるときには、意識的であれ無意識的であれ、本性とは異なる自分を装うといえます。そして、私たちの本性は装い続けることによって次第に歪んでいきます。同様に社会で生きていくにあたっても、規範、約束、慣習によって装うことを強いられ、人々の本性は抑圧されてしまうと考えられます。

つまり、私たち人間は「社会で生き延びるために、本来持っていたはずの本性を放棄せねばならない」という義務を背負って生きているのです。

 

 ■企画案に至るまでの背景

【わたしのための展覧会!?みんなのための展覧会!?】

 まず私たちは、展覧会のコンセプトを決めるためには、一個人の視点からではなく社会全体の市民の視点から探っていくべきだと考えました。なぜならこの展覧会は、公的の場、それも仙台の中心地であるメディアテークで行うため、特定の人に限らず多くの市民に価値を与える展覧会にしなければならないと考えたからです。

 グループを決定する以前に、一人ひとりで展覧会案を出すというワークショップを通して、個々人の内面から湧き出た問題意識を前提としたコンセプトが挙がりました。しかし、これらの案は本当に多くの市民に価値を与えるものか疑問に感じました。そこで、あえて公共の視点から問題意識をあぶりだしたいと考えたメンバーが集まり、もう一度考えるグループが結成されました。

 【しかし…】

 私たちは公共の視点から社会を考えていくと、政治や経済等の漠然とした不安感を思い浮かべます。さらになぜ漠然とした不安感があるのかを考えると、失業の不安や、家族は支えていけるか、といった自分自身の問題に帰っていきます。このように、実際に公共の視点から問題意識を探り掘り下げていくと、結局は自分自身、つまり個々人の問題に帰ってきてしまうことに気づきました。つまり、問題意識は個と社会を絶えず円環しているのだとわかりました。そこで、私たちは個と社会の関係性を検討していくことが必要だと考え、上記のようなコンセプトに至ったのです。

 

■展示場所・作家(案)

 私たちは、より多くの市民に展覧会を楽しんでもらうために、6階ギャラリーによるグループ展示、メディアテーク壁面による野外展示、1階のオープンスクエアによるステージイベントの3つを行いたいと考えました。なお、作品は社会の特質が想起されうるもの、また、個人の本性の叫びが表れているものを中心に、多角的な視点から選出しました。

 

現在、smt7Fで企画案のパネル展示を行っています。ぜひ一度ご覧ください。(いずみだ)

第一回てつがくカフェ

タイトル:震災と文学―「死者に言葉をあてがう」ということ

2011年6月18日にメディアテークで行われた第一回「考えるテーブル てつがくカフェ」。震災後、仙台という地で展覧会を企画するということがどういうことなのかを考えていく上でも、さまざまな人とのやりとりが行われるてつがくカフェは欠かせないものであると感じています。この日のてつがくカフェは今からもう約1年前のことになるのですが、その頃の会場の雰囲気や、そこでやりとりされた言葉などを振り返ってみたいと思います。

てつがくカフェはじまりはじまり

てつがくカフェとは、わたしたちが通常当たり前だと思っている事柄からいったん身を引き離し、そもそもそれって何なのかといった問いを投げかけ、ゆっくりお茶を飲みながら、「哲学的な対話」を通して自分自身の考えを逞しくすることの難しさや楽しさを体験しよう、というもの。

ファシリテーター西村さんによる説明

仙台では2010年からてつがくカフェ@せんだい(http://tetsugaku.masa-mune.jp/index.html)が企画するてつがくカフェの場がありましたが、震災後、人が集い語り合いながら復興や地域社会、表現活動について考えていく場としてできたせんだいメディアテークの考えるテーブル(http://www.smt.jp/thinkingtable/?p=11)において、震災という事象を様々な視点から考えるてつがくカフェが始まりました。6月18日に行われたてつがくカフェはその第一回目。震災から100日が経っていました。

この日は初めに石巻出身の作家、辺見庸氏のビデオを見ました。彼の<震災>以降の詩作活動(<震災を書く>という試み、「死者にことばをあてがう」という営み)から見えてくるものをものに、<震災>に臨む文学に化せられた責務やその可能性などについて参加者間でいろいろと考えてみよう、とビデオ鑑賞後、参加者の人たちの間で意見交換がなされました。

辺見庸氏の映像を見ています

ビデオや詩作のなかで、辺見庸氏は自分の地元である石巻で起きた津波の映像を見ていて、言葉を失ってしまった、と言っていました。そして、その破壊の大きさ、絶大なダイナミズムに驚く一方で、被害を数字によってしか表現できないテレビなどのマス・メディアに対する不信感を顕にしていました。彼は私たちが<震災>に対して言葉を持ち合わせていないこと(失ったのではなく、そもそも持っていないこと)に強い危機感を持っていました。また、物理的復興だけでなく、私という個に見合う外部に対する新しい内部・内面を各々がこしらえることが希望につながる、とも言っていました。

こうした話を受けて、参加者の方からも色々な意見が出ました。震災後、様々な場所で目にする、耳にする「がんばろう」「思いやりを大切に」というスローガンは平易で一般化されており、今まである言葉に当てはめるだけでなく、個別の言葉を個別の体験から探っていく必要があるのではないか、という意見や、自分も被災はしたが、三陸の人のことを考えると語ることに罪悪感や無力感を感じてしまう、という意見。震災が大きすぎて自分がどう悲しんでいるのか感じることができない、という意見や震災によって自粛の雰囲気が日本全国にあったが、自分の言葉で自分の現実を生きている人がいて励まされた、という意見。

会場にはたくさんの参加者が。

参加者からは様々な意見が出されました。

 

初めててつがくカフェに参加した私はこうした参加者の切実な思いがたくさんあることに驚きました。また、参加者の人たちはこうした自分の実感や思いを公の場で語ることを切望しているように思えました。この後、震災後てつがくカフェを続けていく中で、参加者の語ることに対する熱意は少しずつ変わってきたように思えますが、この日の参加者の人たちのてつがくカフェへの関わり方には目覚しいものがあり、こうした市民が仙台にいることの凄さを感じました(県外からの参加者の方もいましたが)。そして、私自身もこの時、てつがくカフェという場において、生身の人たちが発する言葉を聞くこと、自分の言葉を話すことができて、そしてそれを受け止めてくれる人たちがいることで、何か救われたような気持ちになりました。こうして、自分以外の他者から出された意見をしっかりと受け止め、<震災>と言葉について考えるてつがくカフェは、コールアンドレスポンスというチームで企画を練っていく過程においても重要な要素となると思います。

これからのてつがくカフェにつないでいくためのものとして、この日のてつがくカフェの場で紡がれた言葉が、以下のようなキーワードとして提示されました。そして、これらのキーワードは実際に後々のてつがくカフェのテーマとなり、話し合われました。

・震災を語ることへの罪悪感、負い目⇒「てつがくカフェー震災を語ることへの<負い目>?」(http://www.smt.jp/thinkingtable/?p=827

・当事者とは誰か⇒「震災の〈当事者〉とは誰か?」(http://www.smt.jp/thinkingtable/?p=1663

・自分の言葉で語るとはどういうことか

 

様々な声が黒板に書かれていきます。

 

このてつがくカフェがあってから早1年が経とうとしていますが、震災についての様々なテーマについて、距離を置きつつ対話をするてつがくカフェは現在でも月に一度の間隔で継続して行われています。

伊藤照手

参考URL:http://www.smt.jp/thinkingtable/?p=594

椹木野衣さんレクチャー

2011年10月22日レクチャー要約(その1)f.izumida

椹木さんはもともと哲学をしていたが、評論家として1992年展覧会を企画したのがキュレーションの始まりという。それ以前から雑誌、本に原稿を書き、日本画壇の変化を願っていた。日本の美術、ニューヨークの美術の格差を縮めたいと思い、海外の現代美術の紹介をおこない、タコつぼ化した日本の美術界に影響を与えたいと考えていた。

時代を変えたいという思いから、どんなやり方、どうすれば、どんな作家を?と思考を重ねた。銀座の貸し画廊ではインパクトを与えるような作品を展示する事さえ不可能と思えた。そんな矢先、羽田にユニークな場所ができることを知った。「レントゲン芸術研究所」だった。倉庫を改造したもので、重量物を持ち上げるためのリフトが付いていた。

その当時、スタジオボイス、ブルータス、クレア、スパなどいろいろな雑誌にニューヨークの美術動向を紹介していた。しかし、紹介しただけで終わるのではなく、実際に活動ができる「場所」をつくることが大切だと考えていた。

当時、美大の学生だった村上隆は展覧会の企画をプレゼンしたいと電話をよこした、自分の作品をではなく、キュレーションをしたいと相談しに来たことに、作家がこう言うのはまれで「変わってるな」と思った。その後、村上と電話や神田神保町の茶屋で議論を重ねた。制度そのものからの脱却、場所や考え方から変えていかないと意味がない、捨て石になってもいいという覚悟でいた。新しいことが始まるときはそんなものなのかもしれない、ほんとうに些細なことが始まりとなった。

「レントゲン芸術研究所」は大森東にあり、池内美術の息子が現代美術の表現芸術を志し、劇団を持っていたためその劇場として整えたものだった。研究所のこけら落としの際にはじめて池内氏にあった村上、椹木は意気投合し、何件かはしごをしているうちに現代美術展を開催する事まで話が進んでいた。

「アノーマリー(普通ではない)」という企画展がはじめてとなったが、展覧会の一部始終を記録することが重要であると考えた。前の世代の芸術運動では作品との出会いを重視していた、反芸術運動は残らない作品が多く、また、終わったら粗大ごみになってしまう。表現芸術では、記録することが重要であると感じていた。

招聘した作家たち(中原浩大、ヤノベケンジ、村上隆、伊藤ガビン)には新作をお願いした。作家一人ひとりはこれをガチンコの勝負だとし、何を展示するのかを探り合いしながら当日までどうなるかが分からないような企画展がはじまった。

後々田さんレクチャー

8月14日。「キュレーターによる展覧会についてのレクチャー第2回目」として、大阪で「梅香堂」(http://www.baikado.org/docs/home.html)というオルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを運営している後々田寿徳(ごごだ・ひさのり)さんのレクチャーがありました。

後々田さんは「日本のポップ ──1960年代」(福井県立美術館、1992)、「世紀末マシーン・サーカス(SRL日本公演)」(ICC、1999)、「E.A.T. ──芸術と技術の実験」(ICC、2003)などたくさんのプロジェクトを企画してきた方です。私は一つ一つの企画について知らなかったのですが、それぞれ思い入れがあるようで、事細かに話していただいたおかげで現代美術の世界の一端を垣間見れた気がしました。

後々田さんが今まで携わってきた展覧会について

中でも面白かったのが、「世紀末マシーン・サーカス(SRL日本公演)」の話です。

SRL (Survival Research Laboratories)はアメリカのパフォーマンスグループで、「巨大マシンやロボット互いに戦わせ、あたりを破壊しつくす」ようなことをしているのだそうです(ざっくりですみません、HPがありました→http://www.srl.org/index.html)。彼らのビデオを見てこれを日本でもやりたい、見てみたい、ということで後々田さんたちは「世紀末マシーン・サーカス」の公演を企画したのだそうです。当日会場となった代々木公園では、巨大ロボットが火を噴き、モニュメントが炎上し…、とSRLのはちゃめちゃなパフォーマンスに誰もが驚かされたようです。

SRLについて楽しそうに語る後々田さん

これだけだとどんなことが起こっていたのかさっぱり意味が分からないと思うのですが、ただ、ビジュアルとイメージが強烈で、どうしてそんな企画が成り立ったのか、成り立たせるまでの冷や汗したたる苦労話など(消防法の申請など準備がものすごく大変だったそうです)いろいろ聞けて面白かったです。

今回、「キュレーターによる展覧会についてのレクチャー」ということで来ていただいた後々田さんですが、自身はキュレーターではなく学芸員を名乗っているそうです。キュレーターの人が既成のハコ(美術館や博物館)の外で展覧会をオーガナイズするのに対し、学芸員というのはハコに対する責任が重いのだそうです。また、キュレーターはキュレーター自身のアート性が高くなり、自分のアイディアを実現させる為に作家を素材として並べて展覧会を企画する傾向があるけれど、自分は「モノにモノを言わせる仕事」をする学芸員に近く、作家の作品の為の黒子に徹しているとおっしゃっていました。

そして、これまで様々な企画をしてきた中で、後々田さんが大切にしているものを聞いたところ、究極は自分がそれを(その企画展を)本当に見たいか、という動機であるとおっしゃっていたのが印象的でした。もちろん学芸員をやっていれば仕事なので全部が全部自分の好きな事を出来るという訳ではないのだそうですが。

こうした考え方は今の後々田さんの活動にも繋がっているように思います。

後々田さんは2009年に梅香堂というオルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを立ち上げました。それまで、福井県美術館やICCといった「大きな組織」に属して活動していたことから、リスクを背負ってインディペンデントでやっている人たちに対する後ろめたさがあったそうです。また、組織にいることで自分がいいと思っているものを見せられなくなり、ルーチン化する仕事から離れたいと思うようになり、自分が本当にやりたいことを自分のお金で責任を持ってできる梅香堂を始めたのだそうです。とはいえ、一つの施設を一人で運営する、というのは簡単なことではないわけで、知人には「無謀な試みだ」とも言われたそうです。

梅香堂について語る後々田さん

後々田さんは自分の好きなものに素直で、それをやる為なら多少無茶をしても自分の責任でやり通そうと腹を決めているようで、そのありようがとてもかっこいいと思いました。「公共性」という言葉をよく聞きますが、美術の世界でも社会貢献や社会的広がりといった「公共性」が前提になることが多いのだそうです。しかし、文化活動において公共性を第一義とすると、主体性が消え責任の所在もあやふやになるリスクが伴う、と後々田さんはおっしゃっていました。公共性は、見せるという行為の先に結果的に獲得されるものであって、それが逆ではいけない、と。

震災以降は特に、「公共性」を掲げた様々な活動を目にすることが増えました。私自身もそうした活動をすべきなのかな、と思ったりもしましたが、「『みんなのためにやる』というぼんやりしたものではなく『自分がこれをやりたい』からこそ自分がそれに対して責任を持ってやる。結果的にそれを楽しんでくれる人がいたらいい」そうした後々田さんのスタンスに、背中を押される思いがしました。これからコール&レスポンスで企画展を考えていく上でも、自分が本当にやりたいことは何なのか、という本質を見失わないでいきたいと思いました。

会場の様子1

会場の様子2

質疑応答の様子

伊藤照手

オーラルヒストリー

手で文字を写していくことによって、言葉が体の中に入っていくんです。
膨大な言葉による、体の変身。
そして、歌のように訛りが体から出て行く。

 

志賀さんは二〇〇七年に木村伊兵衛賞を受賞している写真家だ。木村伊兵衛賞というのは「写真界の芥川賞」とも言われ、蜷川実花や、ホンマタカシなど現在活躍している作家を多数輩出している写真賞である。2011年~2012年にかけて、smtで連続レクチャーをされており、 今回は2011年8月7日のレクチャー「オーラルヒストリー」の内容をまとめた。

志賀さんは、宮城県名取市北釜を訪れたときに、ここに住んで作品制作をしようと思い、「村の専属カメラマン」として活動する傍ら、作品制作をしている。昔からの集落である北釜に溶け込むことは容易なことではなく、宇宙人を見られるような目で最初は見られていたらしいが、町内会のイベントの撮影などを通して、少しずつ村の人たちの中に溶け込んでいったらしい。
志賀さんは、村の人のオーラルヒストリーに興味を持ち、何十人もの老人にインタビューをしていく。

「今まで見た中で一番美しいものは何ですか?」
「どんな食べ物が好きですか?」

その答えを聞き、録音し、タイピングする。そして、そのタイピングした文字を肉筆で写していく。そのことによって、文字が体の中に入っていくのだという。そうやって、何度も何度も文字を自分の体の中を通過させ、腕や首や、皮膚の内側で肉体化させていく。北釜の老人たちの答えは、そっけないことのほうが多く、中々思うように進まなかったらしいが、例えば美しかったものは「花」と答える老人が多く、「犬」を食べたという話を聞くこともできたそうだ。答える言葉は、「訛り」があり、それは「歌」のように体の中に染み込んでいく、「言葉」よりも深いメディアとなりうる。志賀さんは、そうやって、集落に住む老人たちの経験を肉体化してきた。オーラルヒストリーというのは、事実をそのまま事実として記録することとは違う。誰かが出来事を一度自分の中に取り込み、それを消化し、誰かに向けてアウトプットするといった作業だ。出来事は、彼らの肉体を通して、「物語」へとコンバートされ、他の誰かに伝えていく。それがいわゆる口伝の構造だ。

そんな話を聞きながら、昨年、大学時代にお世話になった教授が言っていた言葉を思い出した。
「最近、大学の中はどうですか?」
「どうもこうも、ますます『使える人間』作ろうとしているよね。」

この教授の言葉は今の大学へ向けた皮肉であると同時に、悲しいほどに真実を表している。そもそも「使えない」人間を養成する文学部自体の存続が怪しい時代である。受験生も、そこで得ることのできる資格や、英語の点数、就職率でしか大学を評価できないし、事実、外側から知ることができる情報の限界もある。そして、それは社会が人を評価するときの物指しと一致する。大学は社会の要請に応えようと努力し、ますます『使える人間』を養成することに躍起になる。最近では肉筆の履歴書より、タイプした履歴書の方が好まれる場合が多いという。しかしながら、そこで立ち止まりたいのは、「タイプした文字から抜け落ちたものはなんだろう?」ということである。口語に「訛り」があるように、文字にも癖がある。同じ人が書いた文字だって、体調がいいときに書いた文字と病気がちな時の字には差があるし、自信があるときと無い時の文字の差は歴然としている。年齢によって筆跡が異なることは言うまでもないだろう。それが、タイピングしたときに抜け落ちてしまう、決定的な情報である。言葉というのは例えば、TOEICのテストで計れるようなスキルとは全く違い、体の中に地層のように堆積していくものである。

志賀さんがやっていることは、そのようにして、現代社会が「無駄」だといって削ぎ落としてきた情報を拾い集めている行為に思われる。訛りを録音し、それを写経することによって、言葉のリズムを歌のように肉体に取り込んでいく。そして、他者の記憶を自分の肉体で消化して、カメラという装置を使って写真作品にコンバートしていくのである。一連の作品を作るのに三年以上をかけているこの手法は、全くもって効率が悪い。しかし、その効率の悪さというのは、現代社会が「無駄」だといって削ぎ落としてきた効率の悪さである。しかし、その経過した時間の中で、体の中に地層のように折り重なった出来事は、「物語」として変容を遂げていくのである。

志賀さんにとって、写真とは肉体化されたイメージをアウトプットするある種の宗教的な儀式のようなものだったそうだ。それは、これまでの写真集「Lilly」を見てみても明らかだ。一回撮影した写真を炎で照らしながら何度も何度も繰り返し撮影して、記憶の奥底にあるイメージに近づけていく。それは自分の記憶を探っている儀式のようにも思われる。

学生のときに受講していた、映像文化論の講義を思い出した。
「写真でシャッターを切るというのは一瞬のことのように思われるけれど、実は君がそこに至るまでに生きてきた記憶との長い長い交渉の末に選んでいる行為なんだ。君はシャッターによって世界を切断していると同時に、瞬きによっても無意識のうちに世界を切断している。切断された世界は死と生を喚起させる。目を開いて閉じるということは写真行為に他ならないし、逆にいうと、写真行為は記憶との交渉でもあるんだ。」

そのように考えると、志賀さんの手法は、ある意味、危険な方法であるとも言える。他者の記憶を自分の中に取り入れるということは、他者の記憶と交渉することでもあるからだ。そのことについての質問があると。
「確かに危険であるということは承知しているが、自分は写真と生きるか死ぬかという、あまりにも密接な関わりをしている以上、覚悟を持って臨んでいる。」
という返答の中に、志賀さんの飾るところのない屹立とした強さを見た気がする。

佐藤 雄

【参考】
志賀理江子 公式ホームページ
http://www.liekoshiga.com/

四方幸子さんレクチャー

昨年7月31日に、キュレーター四方幸子さんによるレクチャーがありました。
四方さんは、情報環境とアートの関係を研究しながら、数々の先験的な展覧会やプロジェクトを手掛けてきたキュレーターです。キヤノン・アートラボ、森美術館、NTTインターコミュニケーションセンター [ICC]の他、 インディペンデントでも活動を行ってきました。
今回のレクチャーでは、四方さんが手掛けてきた数々の展覧会の他、今後キュレーションに挑戦する私たちに向けて、新しいキュレーターの概念について紹介していただきました。

四方さんは、自分自身と、自らを取り巻く情報や環境の関係について強く意識しているようです。この二者は隔てられているのではなく、相互に影響し合っていると話されていました。私たちは普段、環境や情報を対象として認知しています。しかし、自らも無意識のうちに環境や情報の一部となっているのです。
四方さんが手掛けた展覧会も、このように自分と外界の関係を問うものが多いと感じました。
例えば、2009年にNTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で行われた『ミッションG:地球を知覚せよ!』 という展覧会では、気象、国際宇宙ステーションの軌道、南極大陸などといった地球規模の観測データを一挙に会場に持ち込み、リアルタイムで映し出しました。
それぞれのデータは個々人が独自に観測しているもので、連動していません。しかし、あえて同じ会場に持ち込むことによって、情報同士が結びつき組織化される可能性を示唆しています。そして、ばらばらの情報を結びつける作業をするのは来客者、つまり人間である私たちなのです。このように情報を脳内で操作する行為が、既に新しい情報を生み出しているということを暗に示しているのではないのでしょうか。

また、四方さんは、新しいキュレーターの概念についても紹介してくださいました。キュレーターという言葉は70年代に欧米で生まれました。日本では80年代後半から使われ始め、人によって様々に解釈されています。
「展覧会を企画する人」という意味で、キュレーターと学芸員はしばしば同一に解釈されることがあります。しかし、四方さんはこの二つの違いを以下のように解釈していました。
学芸員とは、美術館などの施設に専属しており、様々な専門知識をもち、専門員として展覧会の企画を行う者。一方キュレーターとは、テーマ性のある(展覧会の)企画によって、自らが広く社会に問いかける者。前者は、専門家から一般の人々に向けて、というように、学芸員と来客者の境界が明確で、トップダウン的なイメージが強く感じられます。後者は、キュレーターと来客者がフラットな関係にあり、キュレーターが展覧会を通して発信した問題意識を共有するイメージがあります。
つまり、だれもが情報をつなぎ合わせることで(展覧会の場合では作品同士に関連性をもたせることで)誰もがキュレーターになりうることを四方さんは指摘されていました。
さらに、四方さんはキュレーションの概念を展覧会にとどまらず、社会における様々な分野に拡げるべきだ、という主張もされていました。四方さんは浜野智史さん(情報環境研究家)の「個人が熟議するという近代民主主義原則が問い直されている」という言葉を引用し、個人が環境に積極的に働きかけ、情報をつなぎ合わせて発信し、さらに多数の人と共有することの重要性を訴えていました。