2011年10月22日レクチャー要約(その1)f.izumida
椹木さんはもともと哲学をしていたが、評論家として1992年展覧会を企画したのがキュレーションの始まりという。それ以前から雑誌、本に原稿を書き、日本画壇の変化を願っていた。日本の美術、ニューヨークの美術の格差を縮めたいと思い、海外の現代美術の紹介をおこない、タコつぼ化した日本の美術界に影響を与えたいと考えていた。
時代を変えたいという思いから、どんなやり方、どうすれば、どんな作家を?と思考を重ねた。銀座の貸し画廊ではインパクトを与えるような作品を展示する事さえ不可能と思えた。そんな矢先、羽田にユニークな場所ができることを知った。「レントゲン芸術研究所」だった。倉庫を改造したもので、重量物を持ち上げるためのリフトが付いていた。
その当時、スタジオボイス、ブルータス、クレア、スパなどいろいろな雑誌にニューヨークの美術動向を紹介していた。しかし、紹介しただけで終わるのではなく、実際に活動ができる「場所」をつくることが大切だと考えていた。
当時、美大の学生だった村上隆は展覧会の企画をプレゼンしたいと電話をよこした、自分の作品をではなく、キュレーションをしたいと相談しに来たことに、作家がこう言うのはまれで「変わってるな」と思った。その後、村上と電話や神田神保町の茶屋で議論を重ねた。制度そのものからの脱却、場所や考え方から変えていかないと意味がない、捨て石になってもいいという覚悟でいた。新しいことが始まるときはそんなものなのかもしれない、ほんとうに些細なことが始まりとなった。
「レントゲン芸術研究所」は大森東にあり、池内美術の息子が現代美術の表現芸術を志し、劇団を持っていたためその劇場として整えたものだった。研究所のこけら落としの際にはじめて池内氏にあった村上、椹木は意気投合し、何件かはしごをしているうちに現代美術展を開催する事まで話が進んでいた。
「アノーマリー(普通ではない)」という企画展がはじめてとなったが、展覧会の一部始終を記録することが重要であると考えた。前の世代の芸術運動では作品との出会いを重視していた、反芸術運動は残らない作品が多く、また、終わったら粗大ごみになってしまう。表現芸術では、記録することが重要であると感じていた。
招聘した作家たち(中原浩大、ヤノベケンジ、村上隆、伊藤ガビン)には新作をお願いした。作家一人ひとりはこれをガチンコの勝負だとし、何を展示するのかを探り合いしながら当日までどうなるかが分からないような企画展がはじまった。