こんばんは、企画・広報担当のゆうです。
前回更新した、山形編よりも時間的に前になるのですが、大地の芸術祭「越後妻有アートトリエンナーレ2012」を見に新潟は十日町まで行ってきました。展覧会を作るには、いろいろな作品を見ることも大切だろうと、まあそんな感じで。
「トリエンナーレ」とは「三年に一度開かれる国際美術展」を差し、有名なものだと、横浜桜木町付近で開かれている「横浜トリエンナーレ」などがあり、国内外の若手からベテランまで大小様々な作品を見ることができる。
「越後妻有アートトリエンナーレ」はとにかく広い。全部で六つのエリアに分かれていて、360点もの作品がある。面積は760㎢らしい。 760㎢と言われてもピンと来ないので、試しに仙台市の面積を調べてみると780㎢。仙台市全体とほとんど同じくらいの広さの地域に美術作品が点在している。公式ガイドブックによると、全部の作品をきちんと見ようとすると、大体一週間くらいかかるらしい。
C&Rに参加していて、視野が広がったと感じることの一つに、「美術」という言葉の定義があります。やっぱり美術というと、絵画だったり、彫刻だったり、版画だったり、そういう学校の美術の授業で習った類いのものを想像します。もしくは現代美術の範疇に収められるものとしては、写真や映像といったメディアアートや、空間自体を作るインスタレーションなど が主流とでも言えるでしょうか。実際に作家の方が自分の肉体を使うものとしては、ダンスや舞踏なども美術という言葉に含まれる場合もあります。
今回、越後妻有で見てきた作品の一つに
リクリット・ティーラヴァニットという作家の「CURRY NO CURRY」 (カレーノーカレー)という美術作品があります。
(カレーがあるときは「CURRY」のランプが点灯し、なくなると「NO CURRY」が点灯する。)
この作品は、地元で採れた野菜をふんだんに使ったカレーを見に来た人に食べさせるというもの。じゃあ、レストランと何が違うの?というところですが、この作品の目的はカレーというツールを使って、地元の人と観光客の間に「対話」を作り出すことにあるそうです。やっていることはレストランとなんら変わりないのですが、それに対するスタンスが違うっていうことなんでしょうね。きっと。
ここ、一年半ほどC&Rの活動を通して、様々な美術作品に触れてきて思うことは、美術作品とはつくづく広い意味での「コミュニケーション」なのだということです。とりわけ、今日紹介した、「CURRY NO CURRY」は分かりやすい例えかもしれませんが、きっと絵画だって彫刻だって、それを作った人物(たとえ作者がもう亡くなっている作品だとしても)言葉では言い表すことの出来ない意思を作品に込めているはず。鑑賞者は、作品を通して作者の心とコミュニケートしているのだと思います。
そのようなことが出来るものを総称して、「美術」と呼ぶのだなと。今はそう考えています。
企画・広報
ゆう