“建築家になる”

8年間

イスを外に出して一日中しゃべっていたい

“遠くに石を投げる”





8年間

―― 学生会議:次に、都市に対して“素材”“省エネルギー”といったキーワードで切り込んでいかれていますが、都市について考えるときにこういった考えが出てきた根底にはどういったものがあったのですか? 

 太田 結構オリジナルな気がするんで、ちょっと説明しますね。建築をやっているうちに自分で少しずつ考えてきたことなのだけれど、10年前の僕らの多くは当時の建築論を面白いとは思っていなかったと思う。修士1年のとき南泰裕君と“エディフィカーレ”という同人誌を始たのだけど、その時から自分が考えていることがマスコミの言葉とすごく離れているような気がしていました。エディフィカーレに加わった人では、五十嵐太郎さんは宗教建築論の話をして、槻橋修さんはランドスケープの話をしたりする。つまり他人の言葉を信用していなくって、それぞれの建築に辿り着くための迂回のルートを探っていたのではないかと思います。僕自身も、最初は夢中になってエディフィカーレをやったけど、そこでやってみた座談会にものすごい違和感を感じて、始めたとほぼ同時に建築に決定的に飽きてしまった。だから僕はエディフィカーレを誕生させたけど、それが契機になって、むしろ建築以外の方に興味を持つことになった。あのメンバーの中で、僕が一番遠くまで行ってしまったんじゃないかな。

当時はマッキントッシュが出てきた頃で、まずDTPが出てきて本が作れるという驚きがあった。とにかくコンピュータがすごいらしいということと、メディアを自分で作れるということで皆盛り上がっていた。でも、同時に一瞬建築が格好悪くなったみたいな感じもあって、当時それは結構深刻だったんじゃないかと思います。バブルが終わった直後、建築が空白に放り出されて、突然根拠を失った感じで、僕らぐらいの年だったら今でもそれを引きずっているんじゃないかな。だって、80年代の建築論を連続して追いかけている人ってほとんどいないでしょう。皆何かを見出さなくちゃと思っていたのだと思います。そんななかで、助手の頃にジャン・ヌーベルの“インターナショナル年鑑95年版”という1冊の本に出会いました。

―― 学生会議:その中身はどういったものでしたか? 

94年度のインダストリアルデザインをヌーベルがチョイスした本です。それが、ロス・ラブグロ−ブとかロン・アラッドとかドルーグデザインとかを選んでいて、これがもう良い本なんです。ヌーベルの注釈がついていて、完全に建築論になっている。例えば僕は大学では空間構成で建築を作っていくことをものすごく習いました。やっぱり日本は計画学が強いから、建築というとプランニングをやるというイメージが強いですよね。建築とはまずプランを考えて、ちょっと20度振るのと25度振るのではどちらがいいのかを考えるといったような雰囲気がありました。そういう話に完全に飽きちゃって、安藤さんとか見ていても何か違うなと思い始めていました。そんなときにヌーベルが全然違う切り口を見せてくれた。カーデザインでは要素の配置のことをコンフィギレーション言うのだけれども、そういうデザインの一般言語をヌーベルは建築に混入しようとする。あの本に、そしてヌーベルの建築論に出会わなかったら、今の僕はないと思います。95年ごろのヌーベルは「もはや空間と形態の時代は終わった。素材(マチェール)と光(リュミエール)の時代だ」と言っていて、ああこれで建築に接続することが出来ると思ったのをよく覚えています。同じような意識を助手仲間の今井公太郎さんも持っていて、ヌーベル の発想、例えば“単純性と複雑性”とか、ヌーベルが影響を受けたベンチューリの話を毎日議論していた。

そうしたら、1997年に新宿のOZONEで“ミュータント・マテリアルズ展”というのがあり、これはインダストリアルとリアルデザインの展覧会なんだけど、そこで始めて自分が考えていたことの時代性が分かった。そりゃあもうとても興奮しましたよ。こういう話がものすごくコアなのではないかと思っていたら、ある日突然インダストリアルデザインの論客が皆同じ話を熱っぽく語っているのに出会ったわけですから。その興奮はエツィオ・マンツィーニというイタリア人の“マテリアル・オブ・インヴェンション”という本に出会うまで続くのだけれど、そこで始めてデザインとは何かという問いの深みを知ることができた。それでデザイン論を色々勉強していたら、素材本とか現代デザインの本にはバックミンスター・フラーがよく出てきて、“シナジー”とか言うわけ。コンプレッションとテンションで作るんだとか、ライトネスが重要なんだとか。それでフラーをちゃんと読むようになった。で、彼が素材と省エネと人口問題をつないでいるのを見て、インダストリアルデザイン経由でようやく建築に戻ってきた訳です。その間、8年ぐらいさまよったという感じです。     

―― 学生会議:その8年間はどんな心境だったのですか? 

ちょうど22歳から30歳の間ですけど、もがくというよりは違和感があったのでとにかく遠くに旅に出てみたという感じです。今でもそれはあるけれど、省エネとか素材を巡る状況は2年前とは全然違うから、こちらの言いたいことが分かってもらえる状況にはなってきた気がします。

―― 学生会議:その間雑誌の編集に関わられたりしたことがあったと思いますが、そこに意図はありましたか? 

人と喋るしか渇きを抑える方法がないので、寺田真理子さんが仕切っていた鹿島出版会の海外建築情報という集まりによく行きました。そこには塚本由晴さんがいたり曽我部昌史さんや西沢立衛さんがいたり、手塚夫妻が顔を出したり。そういう場所で建築論を1から作り上げていくのが楽しかった。例えば、最近は“ヘルツォーク”っていうスイス人がすごいらしいとか、ピーター・ソムトゥール(Zumthorのこと)という変わった人は何者だ?とか、今ではみんな知っているけれど、外国の雑誌に作品が出始めて、誰も情報を持っていない時にその人を分析したりするわけ。よく議論して、よく飲みました。

それから重要だったのは建築設計資料集成の編集委員をやらせて頂いたことです。94年ぐらいからだったと思いますが、改訂版を出すというので月に二回ぐらい学会に行って、次の資料集成の基準とはどうあるべきかということをいろんな先生と話させていただきました。ある程度の目次構成が決まったところで部会に分かれるのだけど、お願いして環境部会に入らせてもらいました。そこに東京工業大学の梅干野晃先生と、神戸芸工大の小玉祐一郎先生がいらっしゃって、全くの素人なのにたくさんのことを教えていただきました。環境とか、サスティナブルデザインについては環境部会のお仕事をすることで少しずつ慣れていったんです、でもこうやって話すと周りの人に教わってばっかりですね。それが僕の財産だと思うんですが、本当にありがたかったことです。     

―― 学生会議:30代という世代について思うことはありますか? 

原先生だったら集落調査を始めています。東大生産研の村松伸さんはこの次期にアジア中を旅していらっしゃいますよね。設計の技術を上げることは当然ですが、自分のやろうとしていることがどんなところにあるのかを、世界の風景に照らしながら知りたいと思っています。なるべく沢山の人と関われる方法を見つけたいので。

    

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