▼INTERVIEW

第二回

  太田 浩史(おおた・ひろし)

略歴
1968年  東京に生まれる
1993年  東京大学工学系研究科修士課程修了
       東京大学生産技術研究所助手・同キャンパス計画室助手を兼任(〜1998年)
2000年 デザイン・ヌーブ共同設立
2003年 東京大学国際都市再生センター特任研究員

作品
大内山野鳥観察舎
アガペー千鳥町店
DUET
コンパクト・シティのキャラバン
久が原のゲストハウス
など


編集企画・執筆
SD1999年5月号 挑発するマテリアリティ (鹿島出版会)
建築文化2001年10月号 バックミンスター・フラー (彰国社)
INVISIBLE FLOW 省エネルギー建築ガイド (IBEC)
10+1 #31 コンパクトシティ・スタディ (INAX出版)
など
      




“建築家になる”

8年間

イスを外に出して一日中しゃべっていたい

“遠くに石を投げる”






“建築家になる”


―― 学生会議:建築を始めたきっかけをお伺いします。

 太田 :簡単に言うと高2の春、朝起きたらなろうと決めていました。その前の日まではそうは考えてなかったんだけど。もともとは高1のときに陣内さんの“東京の空間人類学”という本を買って読んで、その後に藤森照信さんの“明治の東京計画”、長谷川尭さんの“都市廻廊”を読んでいたりしました。よくよく考えると都市論で、それは今のピクニッククラブの活動にも関係しているんだけど、高校のとき、居る場所が無かったんですよ。東京には、お金を払わないと学校が終わってからの居場所が無いんです。僕は喫茶店とかあまり好きじゃなかったから、ちっちゃいポケット地図を持ってひたすら歩いて居場所を探していた。

―― 学生会議:東京中をですか?

うん。高校が池袋のあたりで、実家が五反田からの私鉄だったから、電車に乗らず、暇にまかせてその区間を歩いていた(笑)。それだけ歩いてみて分かったのが、居場所なんかありやしないってことです。今はもう開発されてしまった汐留の操車場が当時はすごく重要な“良い”空き地で、品川から歩いていくと、入り口の右側には “関係者以外立ち入り禁止”、その隣には“見学者はご自由にどうぞ”と書かれている看板があって、よくそこで学校をサボって本を読んだりしていました。あそこは唯一タダで居れたかな。ほかには、新宿副都心の55広場。三井ビルの足元にあるサンクンガーデンなんだけど、そこにはずっと居られた。今でも他にああいう場所は無いと思うんだけど、テーブルとイスのあるポケットパークがあって、そこで受験勉強したりしていました(笑)。とにかく都市がつまらないと思っていて、そんな時に陣内さんや長谷川さんの本を読んでいるうちに、ああ建築をやっていこうと納得したわけです。

―― 学生会議:なるほど、高校の頃から都市を使っていたわけですか。

そんな格好のいいものではないけど。ほら、家にいるのも気まずいじゃない(笑)。

―― 学生会議:公園などには行かれたりしなかったのですか?

いい公園なんて今でもないでしょう。お気に入りの公園はなかった。中3のときに友達がニューヨークに留学したので、遊びに行かせてもらったんだけど、セントラルパークやロックフェラーセンターはつくづく感動しましたね。こういうのっていいなと思いました。だからさかのぼるとそのとき建築に興味を持ったのでしょうね。

―― 学生会議:大学時代の話を伺いたいのですが、学生時代に自分から起こしたイベントや勉強会などはありましたか?

大学では最初に美術サークルに入って、シルクスクリ−ンをやったり、デッサンをしたりしていました。本江正茂さんが2つ上の学年、エレファントデザインの西山浩平君が2つ下だったりして色々面白い人が多かったですね。結構退屈していたので何かやろうと思ってやったのが大学2年秋の駒場祭での“時計塔プロジェクト”というので、駒場の時計塔の上にアドバルーンを乗せるという内容のものです。なんでそんなことを始めたのかは忘れてしまったけど、友達と一緒に何かオブセッション(強迫観念)になって「玉が乗ってるのが見える」とか言って盛り上がっていました。そのとき冊子をつくったりして原広司先生や鈴木博之先生にインタビューしたり、そこに貝島桃代さんが飛び込んだりしてきて賑やかでした。そのとき分かったのは僕だけじゃなく皆も退屈しているから、とにかく面白がって旗さえ振ればどんどん物事って動き出すんだなって事です。それがエディフィカーレとか、東京ピクニッククラブを始めたことにもつながっていますね。その後そのまま委員会に入って関わった五月祭では時計台プロジェクトの発展形をやろうと思っていたけど、結局パンフレットを作る時間しかなかった。ただその時に伊東乾さんという現代音楽家やまだ暇そうな小沢健二君、王寺賢太さんといった人達もいて楽しかった。学部の3年になって本郷に泊り込むようになるまでは、そんな大騒ぎの毎日でした。

―― 学生会議:当時、建築家になろうと思っていましたか?

もちろん。

―― 学生会議:建築家になるために何をしたら良いかなどと考えたりしましたか?


焦燥感とかはあったけれど、毎日の事をこなすので一杯でしたね。授業に出来るだけ出るとかその程度。“建築家になる”と勝手に思っていたから“なろうと思って”とはちょっと違うかな(笑)。ただ知りたい事は結構あった。いろんな人と話すのが好きだったから、貝島さんや本江さんと話をしたり、明治大や早稲田大の人とかと飲んだりしていましたね。むしろ建築の何をやるのかをすごく考えていました。

―― 学生会議:原先生から受けた影響はどのようなものがありますか? 

一言では言えないよね。それだけ一から全てを教えていただいたと思っています。というのも、僕は大学院に2年いて、そのときは先生は京都駅で忙しかったからほとんど話をしていないんだけど、修士論文を書いたあとそのまま助手になったのでそこで原先生に設計をきちんと教わりました。雨仕舞はこういうものであるといったあまりにも細かいディテールの納め方から、もっと抽象的なことまでいろいろあるので、皆さんには丸1日あっても伝えきれないと思います。結局、僕と今井公太郎さんとで5年ほど先生のところにいました。その中でも何を1番教わったかというと人や物に丁寧に応えるといったような“まじめさ”みたいなことかな。先生は応えるということをきちんとされる方で、絶対に誤魔化したり、はしょったりしないんですね。それは身の回りの人だけでなく、歴史上の人に対してもきちんと対応しようとするのです。先生は、ミースが考えたことに対して「私はこう思う」と、直接ミースと話しているつもりで考えているので、そういった歴史への向かい方みたいなものを一番強く教わった気がします。

もう一つはやっぱり、“考えること”です。図面の事とか、プロジェクトの事とか、空間論の事とかをアトリエの人が終電で帰ってしんと静まった中、原・今井・太田で朝まで議論したのが面白かったですね。例えばあるとき夜中の3時くらいに帰ろうとしたら、先生が飲みながらコンピューター将棋を打っているわけです。すると突然、「太田さぁ、20世紀はアインシュタインとローリングストーンズだと思うけど、どうかな」と先生が聞いてくる。それで僕は「ローリングストーンズもすごいですけど、僕はジェームス・ブラウンのほうが偉いと思うんですけど。あの人のほうが形式を発明しているし、どちらかというとモンタージュの理論にも近いんじゃないでしょうか」と答えたりする。でも先生は全然聞いてなくて、「そうか。じゃあローリングストーンズとロシア革命の2つってことかな」と(笑)。そういったことを真夜中に突発的に議論したりするんです。建築論に関しては、僕と先生は結構離れていると思うのですけど、その背景というか、それを支える歴史みたいなことをよく話しました。今でも年に3、4回は遊びに行ってそういう話をさせてもらっています。





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