▼INTERVIEW

第三回 馬場正尊氏

  馬場 正尊(ばば・まさたか)

略歴
1968年  佐賀県伊万里市に生まれる
1994年  早稲田大学大学院卒業
       (株)博報堂に入社(〜2001年)
1998年  「A」を光琳社出版より創刊
2001年  早稲田大学大学院建築学部建築学科博士過程に復学
同学科満期退学
「R-project」を(株)スタート
2002年 BABA ATELIER Ltd.を設立(2003年 Open Aに改称)
2002年 家具のデザイン工房(有)ワークショップウェアを沖縄市に設立

著書
1998年「A」(雑誌[A]編集部)
2000年R THE TRANSFORMERS (R-book制作委員会)
  




問題解決型ではなく問題提案型に

建築は受身だ

メディアと建築

建築という乗り物




問題解決型ではなく問題提案型に

―― 学生会議:「R-project」についてお聞かせください。

baba  まず、「R-project」 がどのようにして始まったかというと、2年前くらいのTDB(東京デザイナーズブロック)でお会いしたIDEEの黒崎さんから、ある日突然電話があったのがきっかけでした。その内容は今で言う”リノベーション”なのですが、外資系の銀行からの「空きビルをデザインの力で助けてほしい」という相談でした。僕と黒崎さんは「これはビルの内装という以上のポテンシャルのある仕事だ」と、なんだか興奮して話していた。普通ならそういう相談はゼネコンに行く仕事なのですが、それが小さな企業体にダイレクトに行くところが現代的ですよね。

そしてそのクライアントが、日本の銀行じゃなくて外資銀行だったことも重要でしょう。不良債権の処理で日本の銀行が安く売っていた担保を外資系の銀行が買ったのですが、思うように売れない、という状況が蔓延していた。この状況何とかしたいと思っていて、その突破口がデザインだったというわけなのです。

だけどそこには確信があったわけじゃなくて、半信半疑で話を持ってきていたのだと思う。その辺の暗中模索の雰囲気にすごく好奇心をかき立てられましたね。

不良債権とか外資系の銀行など、今まで遠くの世界にあると思っていたものが急に目の前に飛んできたような気がしたのです。同時にそれは社会の大きなフローにダイレクトにコミットメントする機会ではないかと思いました。
建築が、建築の中だけや閉じた世界の中だけで語られるということに居心地の悪さをずっと感じていただけに、そういった異世界からのチャンスを面白く思ったんで。そこで、その分野、その世界にまじめに取り組んで考えてみようと思って「R-project」というものをつくろうということになりました。これは社会的に面白い現象なのではないかと思えたからです。

では一体、「R-project」ではなにをしようとしているのか、どういう市場があって、どういうニーズがあるのかを把握しなければならないというところから始まりました。それでまずコンセプトブックを作ろうっていうことになったのです。ケーススタディをきちんと見つけてきて、何が問題なのか、どこに壁があるのか、逆にどこに可能性があるのかというものをしっかり検証するためにアメリカに渡りました。そして作ったのが「R-project」の「R-book」です。勢いで米国に行ってアポ無しで取材した結果、あの本ができている。まさに行き当たりばったりで作っていましたね。

photo:阿野太一

そこでいろんなものを目撃したのです。経済の仕組みからいっても、日本の少し先を行っていて成功したり、失敗したりしていて、ケーススタディをたくさん積み重ねられていました。

例えばロサンゼルスの古びれた中華街を改装してアーティストが住んでいてすごく面白い風景が広がっていたりする。みんなも知っているだろうけど、ニューヨークではソーホー、チェルシーみたいなところや、「ミート・パーキング・ディストリクト(MPD)」という肉屋の冷蔵庫街みたいな所に、アトリエのような空間ができていて建築家やアーティストがたくさん集まってきていたりしました。「元肉屋」にファッションブランドが入っていたり、事務所が入っていたり、これはなんて面白い風景なのだと思いましたね。

一方、シカゴでは「コンバ−ジョン」と言うのがすごく当たり前になっていて、オフィスを住居に改造して住んでいる。今では日本でも東京あたりではあり得るけど、その当時「コンバージョン」と言う単語を聞くこと自体初めてでした。

そして、そういった事例を見た瞬間に「この動きは必ず日本にやってくるしそのニーズもある」と思いました。いろいろ取材して分かったのは、最初からこんな市場があったわけではなくてとりあえずやってみて、トライアンドエラーを繰り返しながら今の状況があるのだ、というような話をたくさん聞きました。それで「とりあえず動き出してみないと始まらないな」と思って日本に帰ってきました。

そうこうしているうちに、いろいろな情報が入ってくるようになった。それで、ある人から「日本橋のあたりのビルが結構空いているから、何はともあれちょっと見にきてくれないか」と言われました。どこから僕の情報を聞きつけたのか知らないけれど、情報というものは不思議とそれを発信するところに集まってくる性質があることを実感しました。それで日本橋界隈を案内してもらったら、なんと空きビルだらけだった。シカゴ、ニューヨークの端で起こっていたことが、ここ東京、「日本橋だぜ!」

みんなが知っている地名ですよね。東京駅は近くて、地下鉄はたくさん走っている、交通の便もいい、しかも面白い飲み屋もある。親父飲み屋だけど。かなりエキサイティングな場所が空いているのだなという印象を受けました。やはりこの辺にニーズがあるのだとも思いました。そしてプロジェクトを始めようと思ったのです。一年ぐらい前から軌道に乗ってきたけれど、最初はうまくいきませんでした。しかしいつからか臨界点を越えた感じがあって、ばたばたといろいろな状況が動き出したのです。そして「IDEE−R 株式会社」ができたりしたのです。会社化したことで、空きビルを持っているオーナーから大手銀行等いろいろな人達が相談に来るようになり、「IDEE−R 株式会社」はまるで都市の病院のようになっているようです。



―― 学生会議:地道な活動からこういうムーブメントが広まっていったということですか。それとも潜在的なニーズとしてあったとか。

「廃れたスペースや余ったスペースをどうにかしていくということ」が大きな社会のニーズだったのだと思います。僕もできるだけいろんな所に行ったり、人に話したりしました。それでみんな共感してくれて広まっていった面もあるとも思います。これは「東京R不動産」にも繋がっていくことだけれど、活動をやりながら思ったことがあります。

それは、場所を探す事自体が現代における建築家の仕事のひとつなのではないかと思ったことです。「従来のクライアントの土地にオーダーがあって設計する」という受注型の受け身なスタイルではない建築家のあり方があるのでは。

ここでR-projectの役割と職能を三つをあげるとすると、一つ目は「既存のものの使用」、二つ目は「デザインの領域を再定義すること」、三つ目は「siteを探す」ということです。ふたつ目の「デザインの領域を再定義すること」とは、普通、線をひいて形を描いてものを作っていくというのがデザインだけれども、例えば何でこの物体をつくるのかという初条件、与件をつくること、そのものができる仕組みまで作っていくこと自体をデザインの領域だと考えるようになったのです。条件を与えられてつくるというのではなく、つくるための条件をつくることがよりデザインの行為のベースではないかという気がするのです。問題解決型ではなく問題提案型に、デザインの方向性が変わっていってもいいのではないだろうか、ということです。三つ目の「siteを探す」は新しく何かをしなければならない場所を探すことで、この考え方は「東京R不動産」にもつながってくる。「あそこにおもしろい場所があるから、そこに何をつくるべきだと思う」といった感じで仕事をつくっていけるし、都市の問題を初動のところから解決していくことができるのではないかと強く感じました。




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