問題解決型ではなく問題提案型に

建築は受身だ

メディアと建築

建築という乗り物





メディアと建築

―― 学生会議:「A」を作ったきっかけはどんなことですか?     

baba  まず大学院の時に後輩が「A」をつくろうとしていた。それは、後輩達がそれぞれ書いた原稿を学校でコピーしてホッチキスでとめて袋の中に入れて、一部100円で売っていた同人誌のようなもので部数は100部ぐらいのものでした。面白そうだから参加してみたのが始まりで、「A」という名前も「Architecture」・「Art」・「Activity」・「Anonymous」・物事の始まりという意味もあるし、解釈の幅を相手に与える名前が気に入っていました。そして三号ぐらいを作ったころにはみな就職してしまい、僕も博報堂という広告の会社に就職し、改めてメディアの大切さ、メディアの持つ可能性を認識していました。ゼネコンや設計事務所に就職した人よりもメディアの大切さを敏感に感じることができたと思います。大学院時代につくっていた「A」という同人誌は小さくても自分でメディアを持っていることに意味があったと思います。こんなに面白いことはないと思って、ささやかでも続けることにしました。

一般に流通する雑誌になるまでに6号あり、実際に7号目から本として出版されました。偶然、博報堂の仕事で京都の出版社の社長と「A」とはまったく関係ない仕事のミーティングをすることになったことがありました。サラリーマンとしてミーティングをすることになっていたのですが、ミーティング前夜1時ぐらいに「A」を雑誌にならないかと社長に提案してみようと、とっさにひらめいたのです。それで徹夜で企画書を作りその日のミーティングが終わって、突然社長に頼んで企画書を見てもらいました。当時、建築分野から発信する一般雑誌は海外にはあったのですが、日本にはないということになり、面白そうだからつくれるかどうかプレゼンしてみろということになりました。二ヵ月後に、プロトタイプをつくってプレゼンしてOK。そしていつの間にか進んでいき、7号目から雑誌として「A」が出版されることになったのです。プロトタイプを作った当時、編集するノウハウも知らなければ、写真家の友達もいなければ、デザイナーもいない。だからとりあえず友達のツテを使って一人ずつコンセプトを話して協力してくれるように頼みました。そのテンションを保っていられたのは、「小さくても自分でメディアを持つ」ということの意味を知っていたからです。
―― 学生会議:その意味とはなんですか。
    
それは建築の日常業務の中だけにいたら気が付かなかったことだったと思います。
       
当時僕は博報堂に入って世界都市博覧会の担当になりました。都市博は結局なくなったわけだけれど、それは圧倒的にマスメディアが壊したと思っています。朝日新聞の報道から火がつき一気になくなったのです。今まではガス管、水道管が都市のインフラであったのですが、次の時代ではメディアは都市を形成する上で重要なインフラになるなと強く感じました。建築業界では誰も言ってなかったから、誰かがいわなければならないと毎日スーツを着てぼろぼろになりながら感じていました。同時に事業構造に関わってみてはじめて分かったことがあって、それは物事が決まっていく中で建築家は最後に決まるということでした。そして建物ができていく。まるでケーキの上にイチゴを置くように建築家が使われていた。物事の95%ぐらいは既に決まっていて、建築家は都市の構造にまったく関わっていなかった。それを見て建築を学んだ人間としてせつなかった。    

少なくとも30年前の大阪万博では建築家が社会に対して提案していました。そういう夢をかなえようという「メタボリズム」という考え方自体僕は好きで、乱暴な妄想を描き投げかけて、都市・社会がくみとるという物事の進み方をしていた次期がほんの3,40年前にあって、今の建築家は都市の構造に関わることはなく、関わらないスタンスがクールなこととしてとらえられている。確かに、クールだし、現在の建築という職業は細分化されているから、美しい空間をつくり、その美しい空間が社会を動かすという考え方もある。もちろん、納得できるし一理あると僕も思います。だけど僕はそういうスタンスには立ち得なかった。

長い間、都市を変えていこう、つくっていこうという意気込みが建築からは感じなかった時期があった。この時代の流れとは反対向きのスタンスの方が僕は面白いと感じていて、こういう問題意識はもっていたのです。ささやかでもいいから建築の狭い中だけにものをいうのではなく、世の中全体にものをいうメディアのようなものを作ってみたかった。そこに「A」を本にするという話が偶然あったから、運命だと思い、何もわからないまま「A」を強引につくり始めた。

気が付いたら10数冊もつくっていました。そういう意味では、「建築とメディア」というのは僕にとっては大きなテーマなのです。建築とメディアとの関係について言及していくことは僕の役割だとも思っています。

   

 ―― 学生会議:今後、「A」出版の予定はあるのでしょうか。     

「A」が出版された当時は、「casa Brutus」や「Home」もしかり、インテリアや建築ブームもなく、今ほど建築が社会に浸透していなかった。そのような社会のもとで私たちは「A」によって、"一般社会と建築をつなぐブリッジのようなメディア"はとりあえずは、社会的な役割を終えたというふうに思った。それは売れなくなったということなのですが、「A」が突然売れなくなった時がありました。後々わかったことなのだけど、「casa Brutus」の各月号と「A」の出版日が重なっていたらしく、その時から売れなくなったのです。要は「A」で目指していた、一般社会と建築をつなぐブリッジのようなメディアはブリッジでも何でもなくなっていて、普通のことになっていたのです。
  
新しい世界を切り開くことにこそ意味を感じていたし、メンバーもそう考えていたから、アイデンティティを失った時期でした。そこでもう一度この状況の中でつくりうるメディアの種類を考えてみようということになりました。今までの雑誌の作り方をしても意味はないと思い始め、普通の雑誌でありうる必然性を感じなくなりました。ただ、僕の中では「A」も「R−BOOK」もリニアな直線状にあって、そこで次つくるべき本、雑誌、メディアを「A」の後半で考え始めていました。それはただのメディアではない、プロジェクト・仕事・現象を作り出すため、優位にするためにメディアを作り、うまく利用するというふう考えたのです。

次に偶然出したのが「R-project」の「R−BOOK」で、これはプロジェクトを起こすためのものとして作りました。ぼくはそういう風な感じでメディアを捉えて使っていこうと思ったのです。

次また「A」という名前でやるかどうかはわからないけれど、今年、日本橋・神田を使ったメディアのイベントを本として「A」でだそうかなと思っています。今度のイベントでデザイナーの佐藤直樹さんがつくっている「NEUT」という雑誌があって、「NEUT」も「A」のような雑誌で、久々に今回「NEUT+A」でその本を作りますかということで今考えています。より世の中の様子、状況を汲み取る、取材するということではなくて、露骨にこのプロジェクトを行うために、この状況を動かすためにこの本を作るというスタンスにシフトチェンジをしました。このプロジェクトのための本をつくっていこうということになったのです。そういう意味ではここにレム・コールハースの本(TOTO出版 行動主義 レム・コールハース ドキュメント)があるけど、気持ちは近いと思います。    

―― 学生会議:そうですね。プロジェクトのために本を作るという点では。     

レムはクライアントのために本を作るけど、僕らは1万冊作って売っているっていう感じですね(笑)。彼も元々新聞記者でメディアの会社にいた。本能的に、メディアのポテンシャル、使い方を知っているっていうのはよくわかる。僕もメディアを扱う仕事をしていたからメディアの使い方はセンシィティヴにならざるを得ません。だからコール・ハースも「メディアと建築」の関係をものすごく見事に表現している人だと思う。国の状況とかは違うだろうけど、プロジェクト型ブックを楽しく作っていけたらと思っています。    

―― 学生会議:ところで、「A」を本屋に置く場合どういうカテゴリーに置きますか。     

実は、それは本屋さんもけっこう悩んでいたのをよく知っています。最初は特に悩んでいて、号のタイトルによって置き場がフラフラ変わっていて、瞑想していたかな。サッカー特集のやつなんかは、スポーツコーナーとかに置かれたりしていて、「やった」って感じでしたね。アートとか建築、写真とかいろいろ置き場がいろいろ変わっていました。そういうメディアだったと思います。