オーラルヒストリー

手で文字を写していくことによって、言葉が体の中に入っていくんです。
膨大な言葉による、体の変身。
そして、歌のように訛りが体から出て行く。

 

志賀さんは二〇〇七年に木村伊兵衛賞を受賞している写真家だ。木村伊兵衛賞というのは「写真界の芥川賞」とも言われ、蜷川実花や、ホンマタカシなど現在活躍している作家を多数輩出している写真賞である。2011年~2012年にかけて、smtで連続レクチャーをされており、 今回は2011年8月7日のレクチャー「オーラルヒストリー」の内容をまとめた。

志賀さんは、宮城県名取市北釜を訪れたときに、ここに住んで作品制作をしようと思い、「村の専属カメラマン」として活動する傍ら、作品制作をしている。昔からの集落である北釜に溶け込むことは容易なことではなく、宇宙人を見られるような目で最初は見られていたらしいが、町内会のイベントの撮影などを通して、少しずつ村の人たちの中に溶け込んでいったらしい。
志賀さんは、村の人のオーラルヒストリーに興味を持ち、何十人もの老人にインタビューをしていく。

「今まで見た中で一番美しいものは何ですか?」
「どんな食べ物が好きですか?」

その答えを聞き、録音し、タイピングする。そして、そのタイピングした文字を肉筆で写していく。そのことによって、文字が体の中に入っていくのだという。そうやって、何度も何度も文字を自分の体の中を通過させ、腕や首や、皮膚の内側で肉体化させていく。北釜の老人たちの答えは、そっけないことのほうが多く、中々思うように進まなかったらしいが、例えば美しかったものは「花」と答える老人が多く、「犬」を食べたという話を聞くこともできたそうだ。答える言葉は、「訛り」があり、それは「歌」のように体の中に染み込んでいく、「言葉」よりも深いメディアとなりうる。志賀さんは、そうやって、集落に住む老人たちの経験を肉体化してきた。オーラルヒストリーというのは、事実をそのまま事実として記録することとは違う。誰かが出来事を一度自分の中に取り込み、それを消化し、誰かに向けてアウトプットするといった作業だ。出来事は、彼らの肉体を通して、「物語」へとコンバートされ、他の誰かに伝えていく。それがいわゆる口伝の構造だ。

そんな話を聞きながら、昨年、大学時代にお世話になった教授が言っていた言葉を思い出した。
「最近、大学の中はどうですか?」
「どうもこうも、ますます『使える人間』作ろうとしているよね。」

この教授の言葉は今の大学へ向けた皮肉であると同時に、悲しいほどに真実を表している。そもそも「使えない」人間を養成する文学部自体の存続が怪しい時代である。受験生も、そこで得ることのできる資格や、英語の点数、就職率でしか大学を評価できないし、事実、外側から知ることができる情報の限界もある。そして、それは社会が人を評価するときの物指しと一致する。大学は社会の要請に応えようと努力し、ますます『使える人間』を養成することに躍起になる。最近では肉筆の履歴書より、タイプした履歴書の方が好まれる場合が多いという。しかしながら、そこで立ち止まりたいのは、「タイプした文字から抜け落ちたものはなんだろう?」ということである。口語に「訛り」があるように、文字にも癖がある。同じ人が書いた文字だって、体調がいいときに書いた文字と病気がちな時の字には差があるし、自信があるときと無い時の文字の差は歴然としている。年齢によって筆跡が異なることは言うまでもないだろう。それが、タイピングしたときに抜け落ちてしまう、決定的な情報である。言葉というのは例えば、TOEICのテストで計れるようなスキルとは全く違い、体の中に地層のように堆積していくものである。

志賀さんがやっていることは、そのようにして、現代社会が「無駄」だといって削ぎ落としてきた情報を拾い集めている行為に思われる。訛りを録音し、それを写経することによって、言葉のリズムを歌のように肉体に取り込んでいく。そして、他者の記憶を自分の肉体で消化して、カメラという装置を使って写真作品にコンバートしていくのである。一連の作品を作るのに三年以上をかけているこの手法は、全くもって効率が悪い。しかし、その効率の悪さというのは、現代社会が「無駄」だといって削ぎ落としてきた効率の悪さである。しかし、その経過した時間の中で、体の中に地層のように折り重なった出来事は、「物語」として変容を遂げていくのである。

志賀さんにとって、写真とは肉体化されたイメージをアウトプットするある種の宗教的な儀式のようなものだったそうだ。それは、これまでの写真集「Lilly」を見てみても明らかだ。一回撮影した写真を炎で照らしながら何度も何度も繰り返し撮影して、記憶の奥底にあるイメージに近づけていく。それは自分の記憶を探っている儀式のようにも思われる。

学生のときに受講していた、映像文化論の講義を思い出した。
「写真でシャッターを切るというのは一瞬のことのように思われるけれど、実は君がそこに至るまでに生きてきた記憶との長い長い交渉の末に選んでいる行為なんだ。君はシャッターによって世界を切断していると同時に、瞬きによっても無意識のうちに世界を切断している。切断された世界は死と生を喚起させる。目を開いて閉じるということは写真行為に他ならないし、逆にいうと、写真行為は記憶との交渉でもあるんだ。」

そのように考えると、志賀さんの手法は、ある意味、危険な方法であるとも言える。他者の記憶を自分の中に取り入れるということは、他者の記憶と交渉することでもあるからだ。そのことについての質問があると。
「確かに危険であるということは承知しているが、自分は写真と生きるか死ぬかという、あまりにも密接な関わりをしている以上、覚悟を持って臨んでいる。」
という返答の中に、志賀さんの飾るところのない屹立とした強さを見た気がする。

佐藤 雄

【参考】
志賀理江子 公式ホームページ
http://www.liekoshiga.com/

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