学生時代

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学生へのエール






スタンス

―― 学生会議:僕たちが気になっている素朴な疑問として、建築家と名乗るタイミングはいつなのか。そのうちそのままなってしまうものか、坂本先生はいかがでしたか。     

建築家という言葉を最近よく使いますよね。一般の人たちも使う。でも、建築家って一般人には今でも設計屋さんとか建築士さんとか言われているじゃないですか。建築家とは、なかなか気恥ずかしい部分がありますね(笑)。名刺に建築家と書く人もいます。もちろん僕も自分は建築家だと思っていますが、人に「私は建築家でございます」と言いにくいですね。

例えば、現場の所長、現場監督というのは我々が想像している以上に大変な仕事で、ものすごい能力が必要だと思います。しかし現場の監督者は空間を構想することはあまりないですよね。空間を実現することの構想力はあるけれど。     

そういう意味では、空間を構想することが自分がやることだと思っていますが、自分が建築家と名乗りたいと言うのはあまりないですね。僕の研究室でやっている連中はみんな、建築家っていう言葉は使っていないかもしれないけれど、建築家と同じような考え方を持っているのではないかな。そういう意味では皆さんだって同じことではないですか。

―― 学生会議:少し学生の話が出たのですが、研究室での活動はどのように行っているのでしょうか。
    
 空間を構成することが我々の仕事だと思えば、学生も教師もなくそのことを「考えることは同格」なのです。先生から教わるということはなくて、自分で考えてやるものだと思っています。だから自分の先生に図面の描き方を習おうなんて思いませんでした。先生だってわからない。僕だってわからない。先生も考えている。僕も考えている。今もそういうスタンスなのです。それは授業料払っているから学生であって、給料もらっているから教師であって、というだけのことであって多分連続していると思うのです。僕のところは助手の方とか職員の方が何人かいるものですから、四年生から大学院それから職員の方たち、全員等価にものを作ろうと考えている雰囲気があるのだと思います。僕のほうが学生より経験があるから、僕から盗んでやろうとか思っているかもしれないし、僕のほうから見ると若い方が元気があるしそれを利用してやろうと思うこともあります。だから設計をするときには、大体一緒になって議論しているのですよ。     

だから僕がぱっとスケッチしてね「よしこれでいくぞ、これでやれ」というのはほとんどない。議論しながら「これは違うのではないか」「こうじゃないか」「こう考えるべきじゃないか」と進めていく。特別なイメージが最初からあって、そのイメージで進めるというのはあんまりないのではないかな。全くないとは言えないのだけれども、その場合あくまでも相対的にこういう可能性はないかという対案を同時にやっています。ただ、僕の特権は僕が決定できるということ。それがやっぱり学生と違うところであって、学生はそこで拒否されると「じゃあ俺のイメージは取っておいて将来使おう」と思うかもしれないし、それはその人次第でしょうね。     

―― 学生会議:学生も教員も同じレベルで話し合うのですか・・・。     

僕はそう思っているけれども、経験の違いはあるから学生よりは職員や助手の連中によって決まってくることのほうが多いです。ただ、議論は同じ状態で進めますよ。     

―― 学生会議:研究室で専門家の集まりとしてやっているということと、ワークショップなど一般の人を交えたプロセスで建築を作っていくことの違いについてはどう考えますか。     

研究室でやっているようなやり方を一般の社会の中で、ということは僕は十分あるしできると思います。ただ、研究室の場合かなり共通な価値観の上で成り立っているのでやりやすいです。そうじゃなくて一般の社会の中でワークショップ的なものをやろうとすると多様な価値観が出てきて、そのコントロールがどういうふうになっていくのだろうか。僕は空間的な構想力は建築家のほうが格段よいと思います。それを一般的な社会の中に求めるというのは難しいと思うのですが、ただワークショップによってこちら(建築家)を誘発させることがないとはいえない。だからワークショップをやることによって一般からいい構想が出てくるということは期待できないけれど、それによってこちらが誘発されて良い案が出てくる可能性はある。そういう意味で評価はできると思いますね。     

住む人が集まってつくるコーポラティブハウスは、一種のワークショップのような形になっていますが、その人たちの利害関係の中だけで世界が作られていき、それを超えられなくなることがあります。この場合建築家がそこに対して誘発されるということは、あまりないような気がする。そういうふうにワークショップもコーポラティブの考え方に陥るとそれはあまり評価できないのではないかと思います。つまりそれは、集まったワークショップをする方々の集合による能力を超えてまでのものにはならないということ。「世界内存在」という言い方があるけども、あくまでもその世界のものでしかないし、それだったら建築家の構想力のほうがずっとある。ただ実現できるかどうかという点では、構想力は建築家がもてるかもしれないけれども、それを実現するには必ず社会との関係が必要となる。その調整にワークショップは有効となると思います。     

自分だったらこうする、こう思っているんだとそれを実現するときにワークショップは有利だと感じました。そのことによってそれを社会の中で位置づかせる。方法論としてその考え方を実現させるやり方として有効だと僕も思う。だがそのことによって新たな可能性が、新しい空間の構想みたいなのができるかというと、それは疑問だと思う。コーポラティブで面白い建築って残念ながら僕の知るところではないから。     

―― 学生会議:坂本先生の文章を読んでいたらイメージ調査というものがあったのですが、その具体的なことを教えていただけますか。     

イメージ調査は1980年代の初頭にやっていた研究なんですけども、それこそ今のテーマつまり社会の中の建築ということと絡むのですけど、当時は建築というのはイメージの問題であるというふうに自分は考えていて、実は一般の人が考えるイメージと建築家の人が考えるイメージとはかなりギャップがあるぞと。建物を作ったときに社会の中で意味を持つわけですから、それは一般の社会が建築に対してどういうイメージを持つかということで、イメージが重要であり、それがかなり決定的だと考えていました。     

たとえば「建築」の形というものが、アプリオリ(先天的)にあるのかどうか。ある建物の写真を持ってきてこれはなんの形に見えるか、建築の形に見えるのかどうなのか、どういう建築の形に見えるのかを研究したことがあります。例えば住宅でオフィスみたいなものとか、ある種のビルディングタイプに添う形で一般の社会は建築、建物を見ているとか、幾何学形態だと建築の形に見えるとかね。当たり前なのだけど、切妻の形だと家の形に見えるとかね。こうしたことを検討しました。       

僕の建物で、初期の家型と呼んでいる住宅を「これはどういうものに見えますか」「どういうものだと思われますか」と問うと、僕の想像を越えてほとんどの人が倉庫みたいだとか物置みたいだとか答える。そして建築家に聞くと、建築の形、あるいは家の形なのです。これは、かなりはっきりしていました。つまり建築家だとそこにプロポーションはじめ様々な意味を含めているわけです。一般社会の人だとプロポーションなんかは関係なく、あくまでも普通の形がそのまま現れてくる。建築家だと僕が一所懸命、家型論なんてことを言ったり、建築の形なんていうのを問題にしてやっていたりするから、それは建築のデザインだというふうに思わされているのかもしれない。そういうふうに文化がそのものの意味を作っている。それが、やっぱりイメージの問題ですね。そういうことを検討した研究がそのイメージ論なのだけれども、実際の大きな結論は、この消費社会の構造がほとんど形の意味を作っているということだったわけです。 

―― 学生会議:以前講演会のときにお聞きしたのですが、先生は雑誌しか見ないとおっしゃられていましたが、建築家になるためには実物を見ろという定説に対して、どう思いますか。     

あの時(山形:東北芸術工科大学での講演)もいいましたが、逆説的な言い方をすれば、見なきゃ建築はわからないという言い方は僕はおかしいと思うのです。もちろん、実物が持っている臨場感というか迫力はあるから、それを持っている違いはあるけれども見なくたって図面や写真である程度わかるはずだと思うのです。それでわからないような人は建築家じゃないということです。         

だけど若い人たちがそんなことを言ったらだめですよ。定説は、全面的に僕は賛成をしないけれど、やはり実物と写真や図面との関係が取れるようになるまでは徹底的に見るべきだと思います。見なければだめですよ。勉強を始めた連中が図面と写真だけではだめだと思います。図面で見て、写真で見て、それから想像して、そして実物を見ると、想像していたものと実物との“ズレ”みたいなものを感じるはずです。だからよく「すごく実物よかったよ」とか、逆に「実物はひどかったよな」とか言いますよね。それは“ズレ”があるからで、その“ズレ”が感じなくなるまで見るべきです。感じなくなればそれは図面と写真とである程度わかるということになる。ただ、100%わかるというのはありえないです。あくまでも実物の持っている臨場感があるから、その“ズレ”は絶対ある。だから僕は何でもかんでも見に行かないというつもりはないけれど、できるだけ比較して正確に図面や写真で立体を理解しようとして、それでもできなければ実物を見る。     

実物だけ見ていたってしょうがないのです。ただ実物を見たときに感動はあるからそれを利用するということはある。でも勉強するという意味だったら絶対に図面ですね。別にそれは建築家が書いた図面じゃなくてもよくて、それは雑誌に載っている1/100、1/200の図面でもよいし写真でもよい。そういうもので比較して“ズレ”がなくなるまで見たらよいと思います。